佳作「誘い女 朝霧おと」
その女性を初めて見たのは、京都の四条大橋の上だった。鴨川の土手に等間隔で座るカップルの景色が面白くて、私は欄干から身をのり出してカメラのファインダーをのぞいた。
そこにぽつんと立つひとりの女性。遠くからでも美人に見えるその人は、じっと川面を眺め、身動きひとつしない。風に吹かれた長い髪がかすかになびく程度だった。
私は構図もなにも考えず思わずシャッターを切った。次はちゃんと撮ろうと再びカメラを構えたとき、女性の姿は忽然と消えていた。そのときは、女性がどこかに移動したものだと思い、たいして気にもとめずにいた。
次に見たのは、一ヶ月後の与論島だった。海に沈む大きな夕陽を撮りたくて、茶花の海岸に訪れたときだ。六月なのに、すでに真夏の暑さを思わせるビーチは、遊び足りない若者たちがまだ数人残っており、私のイメージにびったりの映像が撮れそうな気がした。ファインダーをのぞいて何度かシャッターを切る。その最中、予告もなく女性が現れた。赤い夕陽を正面に受け、女性の長い影が砂浜に伸びる。それは息をのむほど美しかった。
鴨川の人だ……。
一度しか、しかも一瞬しか見ていなかったのに、どういうわけかその人が京都で見た女性と同一人物だと確信した。私は夢中でシャッターを切った。ひとしきり撮ってカメラを下ろすと、さっきまで確かにいたはずの女性は消えていた。そして不思議なことに、私のカメラの中には、一枚たりとも彼女の映像は残っていなかった。
「お前さんの妄想じゃないの。奥さんが亡くなったからって、まだ一年だろ、妄想するには早すぎるよ。ていうか、ボケが始まった?」
友人の田代が小バカにしたように笑う。
「バカな。女性は確かにいたんだよ」と言いながらも自信がなくなってくる。
学生時代に少しハマったカメラを再び始めたのは、五年前に定年退職をしてからだ。第二の人生を謳歌していた矢先、妻が病気で亡くなってしまった。それからというもの、寂しさをまぎらわせるために、日本中、ひとりで撮影旅行に出かけていた。
私は田代を悔しがらせたくて、得意気に言ってみた。
「すっごい美人でさあ。この世のものとは思えないほどのオーラがあったんだよ。今度、現れたら、絶対撮ってくるから楽しみにしといてよ」
「はいはい、待ってますよ」と、田代はまた笑った。
「今、家を出るよ」と娘に電話をした。受話器の向こうで孫のはしゃぐ声がする。「気をつけてね。いってらっしゃい」
どこへ? いつ帰ってくるの? ホテルの電話番号は? など、なにも聞かれない。
次は息子にメールをした。仕事中だろうから、気を遣ってのことだ。「了解」と二文字だけの返信がきた。それぞれ家庭を持って、親の心配どころではないのだろうが、少しは気にかけてくれてもいいのではないか、と不満がつのる。
八ヶ岳の秋は早かった。すでに紅葉が始まっており、白駒池の水面に映るダケカンバやカラマツの黄金色、ドウダンツツジの赤がこの世のものとは思えないほど美しい。なるべく人のいない場所をと、湖畔を三十分ほど歩き回り、絶好の撮影スポットを見つけた。少し小高くなっていて、湖を大きく見渡せる。
さまざまな構図でシャッターを切った。納得するまで何度も切った。これを最後にしようとカメラを向けたときだ。あの女性が現れたのだ。湖の対岸にたたずみ、こちらを見ている。顔はよく見えないが、遠くからでも美人であることがわかる。
今度こそ撮るぞ。田代の鼻を明かしてやる。待っていろよ、田代。
目いっぱいズームをしてもまだ足りず、私の体は前へ前へと進む。ああ、見えてきた。息をのむほど美しい。あの人の元へ少しでも近づきたい。
「あぶないっ!」突然の声に私はわれに返った。足元を見ると、もう少しで湖に転落しそうなほどがけっぷちまで来ていた。
「出ましたね、誘い女。気をつけてくださいよ、おたく、殺されますよ」
気づくと、見知らぬ男が私の腕をつかんでいた。
「誘い女はいつも水辺にいて、欲する男の前に現れるんですよ。あなた、欲してるんでしょ」
「……欲してなんか……いませんよ」
「それならいいんですがね」男はにやりと笑うと林の奥に消えた。
なんだよ、誘い女って……。
その瞬間、私は思い出した。今朝、仏壇の妻に何も言わずに出てきたことを。私はカメラをかかえると、転がるようにして苔むした林の中を走った。