選外佳作「新人気分 森嵜直行」
アラームがなっている。朝だった。ああ、もうこんな時間か。もう少しで遅刻するところだった。おれは独り身だから、起こしてくれる人が他にあるわけでもない。急いで身支度を整える。今日はいつもよりもずっと体が軽く感じた。まるで若返ったみたいだ。簡単な朝食をすましてから、おれはいつものように歯をみがく。ふと鏡に映る自分の顔をみた。いつもと同じ自分の顔だった。同じ? いや、いつもより少し若く映っている気がした。気のせいだろうか。
いつもより少し遅れて家をでた。二十年以上務めてきた会社に向かう。入社以来、同期の誰よりも一生懸命に働いてきた。元来要領の悪かったおれは、人一倍の努力をする必要があった。きっとばか正直にのた打ち回る姿が上司の心にひびいたのだろう。三十代のうちに企画部部長となり、同期の中では一番はやい出世だった。おれは部下を指導する立場になった。毎年入ってくる新人社員に、社会の厳しさを教え、学生気分のぬけない対人に対しては上下関係をはっきりと教えねばならない。近頃の学生はまるでだめだ。上司に対して平然とため口で話しかけてくる。後輩になめられるようでは仕方がない。新人に対して大人のルールを教えるのがおれの役目だ。
会社に着いた。一人の若者がパソコンに向かっていた。おれは若者にむかって声をあらげて言った。
「おい杉崎、昨日の報告書、あれは何だ。あれじゃあ入社したての新人と変わらない。何度言えばわかるんだ、書き方がまちがっているじゃないか」
しかし杉崎は少しも慌てる様子がなく、それどころか憤怒の表情で言い返してきた。
「お前、今年に入ってきた新人社員だな。先輩を呼びすてにするとはどういうつもりだ」
おれは一瞬、何を言われているかわからなかった。おれは杉崎を入社してきたばかりのころから面倒みてきた。おれはこいつの上司だ。だが杉崎は毅然とした態度でこう言ってきた。
「最近の学生は口のきき方を知らないんだな。おれが上司として、お前に会社のルールをしっかり教えてやるから覚悟しておけ」
おれは蛇ににらまれた蛙のようにその場に立ち尽くした。そこへ常務がやってきた。おれはおどおどした表情で常務の方へ目をやった。常務が言った。
「今年に入ってきた子だね。杉崎君によく教えてもらうといい。杉崎君、よろしくたのむ」
「常務、私です。企画部の部長の倉田隆です」
おれは必死だった。しかし常務は少しむっとした表情でこう言った。
「君は今年入社してきた倉田隆君だろう、しっかりしたまえ。もう社会人なんだから」
そのうちに常務はどこかへ行ってしまった。杉崎が話しかけてきた。
「お前パソコンは使えるんだろうな。よし、今日は一通り仕事の段取りを教えてやる。しっかり覚えろよ」
仕事の段取りなんて全部知っている。当然だ。こいつなんかよりもおれははるかにここの仕事のことを知っている。二十年以上、おれはこの仕事をやり続けてきたのだから。
その日は一日中、杉崎から説明されたり指示を受けたりしていた。すでに自分がよく知っている仕事内容について、くどくどと説明を受けるのは苦痛だったが、それよりも杉崎の高圧的な態度がいやだった。常に上から物をいい、独りよがりであり、部下の気持ちなど、私の気持ちなどまるで考えていないではないか。それで、つい言ってしまったのである。
「杉崎、人に物を教えるときは、相手を思いやることが大切なんだ。部下の立場にたって、部下の気持ちを考えて指導しなければだめだ。そんなやり方じゃ、誰もついてこないぞ。部下だってロボットじゃあないんだ」
「そうですよね、倉田さん」
杉崎がおれの目をみて言ってきたのだ。そのときようやく気がついた。同じであることに。今日の杉崎の高圧的な態度は、昨日までのおれが部下に対して向けていたそれと同じだった。部下への思いやりが足りていなかったのはおれ自身だったのだ。みんな、自分のことは自分が一番よくわかっていると思っている。ところがそうでもないのだ。人から言われてはじめて気がつくこともある。杉崎……
気がつくとベッドの上に寝ていた。あれは夢だったのか。そのときアラームがなった。朝だった。いつものように体が重かった。簡単な朝食をすましてから、いつものように歯をみがく。ふと鏡に映る自分の顔をみた。いつも通りの顔だった。杉崎の報告書の件については、大目にみてやるこにしよう。部下を思いやることの大切さはさっき気がついたばかりだ。
いつも通りの時間に、おれは家をでた。