選外佳作「新人の心得 栗太郎」
佐々木部長は疲れていた。新入社員が入社して二週間、人事部に対する苦情はヒートアップする一方だ。
「なんだ、あの新人は!」
今の時点で、仕事ができないのは仕方ない。だが、社会人として最低限のマナーを守れないのはどういうことか?
挨拶をしない、遅刻をする、メモを取らない、報告も連絡も相談もしない。
「知らない番号からの電話は怖くて出られない? あいつら、仕事を舐めてんのか!」
佐々木部長は彼らを宥めるのに必死だ。
「長い目で見てやってください。彼らなりに頑張っているんです」
同時に、新入社員からの訴えにも耳を貸さねばならない。
「もう辞めます。僕、この仕事に向いていないんです」
「○○先輩が苛めるんです」
正直、いい加減にしろと、怒鳴り飛ばしたいことも多い。それでも採用した以上は責任があり、縁もあるのだ。簡単に切り捨てることはできない。
新年度が始まって数週間、新人もそれを受け入れる側も、忍耐が必要とされる時期だが、一番辛いのは間に立たされる人事部だと思う。
今日も、佐々木部長は定時をはるかに回ってからタイムカードを押した。帰ったらベッドに倒れこみたいが、それは許されない。洗濯物が溜まっているし、息子の体操服にゼッケンを縫いつけねばならないのだ。
コンビニエンスストアでカップ麺を買って帰宅した佐々木部長は、玄関に義母の靴を見つけて肩を落とした。ああ、今日は彼女が来る日だったか。
疲労感がいや増すが、佐々木部長は、新人の心得を思い出す。
苦手な人ほど明るく挨拶、だ。
「ただいま帰りました。お義母さん」
「……お帰りなさい。隆志ちゃんは、もう寝ちゃったわよ」
以前なら、こんな時間まで子どもを放っておくなんて、どういうつもりなの!
に始まって、栄養が偏った料理から、ゴミの捨て方、掃除の仕方まで延々とお叱りが続いた場面だが、明るい挨拶に気がそがれたか、義母は小言を飲み込み味噌汁を温め始めた。
「いつも済みません」
夕食を調達してきたことはおくびにも出さず、佐々木部長は洗面所に向かった。汚れ物で一杯だった洗濯籠は空になっている。乾燥機にも残っていないところを見ると、義母の手によって畳まれ、仕舞われたということだ。
プライベートな空間まで踏み込まれることには正直、抵抗がある。だが佐々木家は今、妻が切迫流産で入院中という非常事態なのだ。
完全なる仕事人間だった佐々木部長は、家事育児については全くの新人で、そのことを自覚もしていた。
「金曜日なんですが、かなり遅くなりそうなんです」
悪いと思ったことこそ早めに報告する。これも大切な新人の心得だ。
「隆志ちゃんの誕生日なのに?」
義母が眉を跳ね上げる。父さんがカレーを作ってやるという約束に隆志が大喜びだったことを、義母は知っているのだ。
佐々木部長は急いで続けた。
「その日は隆志をお義母さんのところに泊めてやってもらえませんか? 土曜日は私も休みですから、一緒に美奈子の見舞いに行って、それからあいつが行きたがっていた水族館に連れて行こうかと」
「仕方ないわねえ」
まんざらでもなさそうに義母がうなずいた時、ピロンと、スマートフォンが可愛らしい音を立てた。
「あ、お父さんがついたみたい」
車で通勤している義父が時間を合わせて迎えに来たのだ。
「ああ、ゼッケンは付けておいたからね」
見送ろうとする佐々木部長を手で制すると、義母は颯爽と帰って行った。
妻の入院が長期に渡ると知った時、佐々木部長は半ばパニックに陥った。仕事と、子どもの世話と、妻の見舞い、一人で乗り越えられるとは思えなかった。
そんな時、新入社員たちにかけた言葉を思い出したのだ。
「SOSを出せて一人前だぞ」
佐々木部長は腹をくくって、苦手だった義母に助けを求めた。
「俺も新人だからな」
素直に、出来ることを懸命にやるしかない。
佐々木部長は、ぐいと味噌汁を飲んだ。丁寧に出汁をとられた新ジャガイモの味噌汁は、妻のそれと同じ味がした。