選外佳作「春休みの校庭をながめながら 鶏冠シュウ」
わたしは春が苦手だ。
桜が好きではないからだ。きちんというなら、桜の花の散り方が好きではない。……正直に言おう。この校庭に並ぶ古い桜たちの散りようが好きではないのである。
風に凍った気配がなくなると、どこの桜よりも早くつぼみがふくらんでいく。それはいい。子こどもたちが不思議そうな、それでいて期待をにじませた目で見ていくからな。
枝のあちらこちらで、花がちまちまと開いていく。それも問題ない。子どもたちが一輪一輪かぞえては喜んでいるからな。
ついに全部の木が、わあっと明るくなる満開を迎えると、子どもたちよりも親の方が、「早く花見をしなくちゃ」とか「学校だから酒はやめとこか」などとさわがしくなる。気持ちはわからないでもない。よしとしよう。
十日ばかりか、桜たちはお日さまに負けない光を放ち、月とともにふんわりとした灯りとなる。実にいい。一日ながめていて飽きないね。
ところがだ。何をそんなに急ぐ必要があるのか、いっせいに花びらが落ちていくのだ。申し合わせたように、いっせいにだぞ。
ちまっちまっと咲いてきたのだから、散るときも一つずつ静かにゆけばよいのに、なんなんだ、あのうるさいほどのいさぎよさは!
だから、見ろ。卒業していく子どもたちは、花の風にいつもかなしげな目を向けるではないか。
わたしだって、さびしいではないか。
(健やかで、楽しい日々をすごすのだぞ)
巣立つ子どもたちへ強く念じずにはいられない。もう何もしてあげられないのだから、せめて祈るのだ。願うのだ。
すぐにおちびさんたちがちょこちょことした足取りで来るけれど。この子らを守っていかねばと新たな決意をするけれど。
そう、これがまた複雑な思いにさせられるのだよ。
卒業した子どもたちのことを案じつつ、新入りのおちびさんたちに心引かれる。なにやら自分が薄情な気がして、少しばかり落ち込むのだ。
いや決して卒業生たちを一人たりとも忘れてはいないぞ。五十年前の、いたずらばかりして先生を手こずらせたはなたれ坊主も、三十年前の、学年で常に一番の成績をおさめていたおしゃまな少女のことも覚えている。
しかもその行く末だって風のたよりでちゃんと知っているぞ。はなたれ坊主は重い病を治すことができる菌だかを発見した博士に、おしゃまな少女は息子二人を五輪選手に育てあげた肝っ玉かあさんになったのだ。なんてすばらしい! わたしの自慢の子どもたちは彼らだけでは……。むむ、話がそれたな。
それにしても、である。
行事のせわしなさや子どもたちのことで、わくわくしたりおろおろするのは一年中であるのに、なぜ春にはせつなさが加わるのだろう。
昨春、ふっとわいた疑問だ。卒業生たちが出ていき、在校生たちが次の学年にそなえて休んでおり、まだ新入生たちが来る前の静かすぎる中でな。
考えながら、校庭に残るうすい花びらが強い風に吹き上げられるのを見ているうち、はたとひらめいた。
一年のうちで春だけなんともいいがたい、せつなさが漂うのは、あの桜たちの散り方のせいなのだと。
あんなにやさしげではかなげな花たちが、何の未練もないかのように、さあっと散っていく。あまりにあっけない、いや、冷たささえ感じようというものだ。
だから、この校庭に並んでいる同い年の桜たちが好きではないのだ。
だから、わたしは春が苦手なのだ。
わたしたちも、本当はもっとじっくり咲いておきたいのですけれどね。春には風がつきものですし。花いかだもなかなか“おつ”だと自負しているのですが。
そもそも、この国の人間たちが、この季節に出会いと別れの儀式をはじめたのが原因ではないかしらんと思うのですが……。
まあ、ともかくです。
花の散り方に八つ当たりするほど、子どもたちが大好きで少々涙もろくなってきた校舎さん。これからも何世代もの子どもたちから「なつかしいねぇ」「変わってないなぁ」とながめてもらえるよう、お互いにがんばりましょうね。