選外佳作「私の愛。花びらビール 並木えつ子」
折り畳み型のポリタンクに水を汲み、炊事棟からテントに戻って来た隆夫が言った。
「ちょっと手伝ってくる。あれじゃあ全然だめだ」
「え、誰を手伝うの?」
「男の子を連れた若い女性だ。シングルマザーらしい。持ってきたテントを建てられなくてオロオロしている。もうすぐ日が暮れてしまう」
子連れの女性新米キャンパーが困っているのを見過ごせないというわけだ。
いつもどおりのお人よし、あるいはお節介、あるいは……。引き止める気も起きず、ツル子は、ポリタンクを置いて炊事棟近くのサイトに引き返す夫を見送った。少し小高くなった場内道路の向こうに、隆夫の脚、背中、頭が消えた。大きな木が一本立つ辺り。咲き始めの桜のようだ。その近辺のサイトで若い母親と子供がテントと格闘しているのだろう。シーズンというにはまだ早めのキャンプ。夕刻からの寒さへの備えはあるのだろうか。隆夫はそんなことまで気を回して、あれやこれや面倒をみているに違いない。
ジンギスカンと一緒に焼く野菜はもう切ってあるし、隆夫が熾した炭火もそろそろ落ち着くころ。彼が戻ってきたら、クーラーボックスから肉と缶ビールをとり出し、食事にしよう。折り畳みチェアを二脚開いて座り心地をたしかめ、テーブルに紙皿とコップ、箸、調味料を並べて、隆夫が戻ってくるのを待った。
眼前に広がる湖に、沈みかけた夕日が映え目に染みる。ほおっと開放感に包まれる。ツル子は時間つぶしに持参した文庫本を開き、ホオヅキ型の小さなランタンを灯した。
キャンプをするのは、結婚前から通算すると百回にもなるだろうか。都会で生まれ育った隆夫は、自然の中で樹木や魚と戯れ、星空を眺めて眠るのが憧れだったと、地方の町に職を得て、出会ったツル子を巻き込んだ。ツル子もどちらかというとアウトドア派。子供たちが幼かった頃は年に五、六回ほどキャンプを楽しみ、中学、高校の頃は間遠になったが、巣立ってからまた夫婦二人のキャンピングライフが始まった。その間に、キャンプ場は過疎化する地域の活性化に、とのかけ声のもとで整備が進められ、より快適に簡便に変化してきた。おかげで原初の自然の味は薄らぎ、苦々しさを感じたこともあったが、人は楽な方に流される。いつしか、まあいいやなんていう気分にもなっている。
文庫本の文字に目を落としてみたが集中できず、ツル子は頭の中でキャンプ回想譚をめぐらせた。星空、焚火、酒の三点セットに酔いしれ、夜中までしゃべりまくって子供たちに泣きべそをかかせてしまったこともあったなあ―。
それにしても戻りが遅い。手間取っているのかな、ややこしいタイプのテントなのかもしれない。やっぱりできませんなんてベテランの面子にかけても言えないだろうし。苛立ちを覚え始めたころ、
「おとうさん」ふと、囁くような子供の声が聞こえた。
「おとうさん」
「おとうさん」
迷子かな? 助けてあげなくちゃ。立ち上がりテントの外に出ようとして、ツル子ははたと足を止めた。出ていくべきではないような気がした。「おとうさん」とくり返す子供の声と声の間隙に、大人の歩く音がある。選び抜いたお気に入りのスニーカー、少し弾みをつけて芝生を蹴る、トシの割には勢いのあるよく知った足音。
「おとうさん」、足音。「おとうさん」、足音。
首を伸ばして覗いてみた。薄闇が迫り始めたキャンプ場の小高い道に、手をつないで歩く親子のようなシルエットが見えた。二人の姿は、やがて道の向こうへと沈んでゆく。あの桜の木の下辺りへ、姿は消えた。束の間、茫然とした。(どうやって、何と言って引き戻しに行こうか…)考えをまとめようとして伸ばしたままになっていた首を引っ込めた。
「何を見てるんだい?」
腑に落ちない顔つきの隆夫が、傍らに立っていた。
「けっこう難しいテントだったんだ。でもうまくいった。さ、ビール飲もうよ。子供がテントを建ててくれたお礼にって、これをくれたんだ、かわいい子だったよ」
隆夫は指につまんだ桜の花びらを掲げてツル子に見せ、コップに浮かべて目を細めながらうまそうにビールを飲み干した。
「よかったわね」ツル子の顔にも笑みが広がる。実は、やっとのごまかし笑い。瞬時ながらうろたえた自分が、どうしようもなく恥ずかしい。そして可笑しかったのだ。