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選外佳作「桜の樹の下には 門田弘」

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第25回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「桜の樹の下には 門田弘」

桜の樹の下には屍体が埋まっている──梶井基次郎はそう書いた。なぜこれほどまでに美しいものが世に存在しうるのか。腐乱した屍体のイメージを重ね合わせることで、作家はようやく、美の不安から解き放たれたんだとぼくは思う。君たちなら、桜の樹の下に何を埋めるかな。

浅野准教授が女学生たちを見回す。おきまりのフレーズ。おきまりの声のトーン。おきまりの得意げな表情。毎年、ゼミの始めに、彼はキャンパスからほど近い城址公園に学生を連れてきて、桜の老木のもとで足を止める。眉をよせ、もの憂げな視線で満開の花を見あげながら。

君はどうかな。とつぜん水を向けられた青いジャケットの女学生が、酔いから覚めたように目を見開く。え。えっと、えっと……ヴィトンのバッグです。

女子大の文学部には、文学と縁もゆかりもない無邪気なお嬢さんたちがあふれている。それにしても、この青ジャケットはひどすぎた。さすがの准教授も苦笑いを浮かべる。

桜の樹の下といえば、坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読んだことのある人も多いだろう。青ジャケットの返答は無視することにしたらしく、准教授は淡々と語りを続ける。二十人近くいる学生の中に、瞳をきらきら輝かせて聞き入っている子も数名いる。七年前の私と同じように。

七年前、私は浅野ゼミの学生だった。つまらない高校の授業から解放され、大好きな文学の世界に耽溺できることに胸をときめかせていた。彼の講義は私の好奇心と、ほとばしる先を探していた感性を心地よく刺激した。私は研究室に出入りするようになり、教え子から恋人になった。その時の私には、えせインテリ男の卑劣さを見抜く力がなかった。

満開の桜が恐ろしいのは、自分の穢れに折り合いをつけて生きている人間に、ごまかしの一切ない刃を突きつけてくるからではないでしょうか。質問はあるかな、という問いかけに対して、眼鏡をかけた色白の女学生が手を挙げて言った。

准教授の頬がぴくっと動く。うん。いい意見だね。桜の美しさが人に恐怖を与え、狂わせる話は、各地の昔話や能にもたくさんあるんだ。たとえば『隅田川』という謡曲には桜は直接出てこないが……

おきまりの話運びなのだが、新しい獲物を見つけた喜びに震えているのが手に取るように分かる。色情狂。この男は、文学を餌にして若い女の肉体を漁ることしか考えていない。

妻子がいるけど、いいかな。居酒屋から誘い込まれたラブホテルのベッドで、准教授は言った。うなずいた自分の哀れさよ。私は院に進み、研究室に残って彼の助手になった。そして過去の女になった。

毎年、新しい学生が彼の毒牙にかかるのを見るたびに、私の心ははげしく痛んだ。文学の世界に憧れる純真な魂が、穢され、泥沼へ堕ちていくのがたまらなかった。

准教授の話題は西行法師に及んでいる。終盤だ。世を捨てて、なお美への執着を断ち切れなかった西行。桜の樹の下に、私は西行法師への思慕の心を埋めます。七年前、そんな気恥ずかしくなるようなセリフを、私は彼に向かって誇らしげに吐いた。

吉岡凜子の顔が思い浮かぶ。去年の春、私と同じように西行を引き合いに出した女学生。桜の花影が白い瓜実顔に落ちて、はっとするほど美しかった。研究室を訪れるようになった凜子と、私も会話を交わすようになった。

その表情から初々しいきらめきが消え、何かを見切ったような頽廃がちらつくようになっても、私は彼女を見守りつづけた。構内の銀杏並木を一緒に歩き、コーヒーショップで文学を語らった。彼女も私に信頼を寄せてくれた。

浅野先生のことだけど。マンションに誘い、ワインがほどよく回ったところで准教授の名前を出すと、凜子の顔色がさっと変わった。あの男の毒であなたが侵されていくのを、これ以上見ていられないの。

凜子は戸まどい、反論し、怒った。唇を突きだして私をなじった。出ていこうとした彼女の肩をつかみ、私は両手でその細い首を絞めた。頬がふくらみ、桜のようなピンク色に染まる。屍体を床に横たえ、髪をひと束切った。城址公園のいつもの桜の下にそれを埋めたのは昨夜だ。

キャンパスに戻る学生たちの後ろにつき、私は老木をそっと振り返る。どうしようもない卑劣さを含めて、あの男のすべてを受け止められるのは私だけ。

先生。あの樹の下に埋まっているのはね。──