佳作「サクラヒラクイーン 坂倉剛」
とある日本料理店で会合が開かれた。出席者は馬主、調教師、騎手、それに実況担当のアナウンサーという面々だった。彼らはただ単に競馬業界人というだけではなかった。ある一頭の馬に密接に関係した者ばかりだった。馬の名はサクラヒラクイーン。「桜の花が開く」と「女王」を組み合わせたネーミングだ。「ほんとうにいい馬だった」馬主が杯をかたむけながらいった。
「血統は申し分ないし、高い種つけ料を払って産ませたし」
「母はナオトラセイバー、父はチェリーキングでしたからね」競馬実況歴三十年のアナウンサーが、馬主に酒を注いだ。「牡馬に何度も勝ったことのあるナオトラに、当代随一の種牡馬チェリキン。最高の組み合わせですよ」「サクラヒラクイーンの能力は飛び抜けてましたね」調教師が杯をぐいと干してから言った。「他の馬とは物がちがうというか」
「僕がはじめてヒラクイーンに乗ったときのことは忘れもしません」騎手はすでに顔が真っ赤だった。「鞍にまたがった瞬間、ゾクッとしましたよ。オーラというか大物感がすごくて。あれを感じたのは三冠馬のハネダブラウン以来でした」
刺身が運ばれてきた。赤身で、ほどよく脂が乗っている。
「サクラヒラクイーンは競馬の歴史を変えるだろう オーナーのひいき目も入っているかも知れんが、観客的に見てもあの馬は器の大きさをうかがわせた」そういうと馬主は刺身に手を伸ばした。
「私もそう思ってました」調教師は舌つづみを打った後、言った。「おせじじゃなく、ヒラクイーンにはその可能性がありました。残念なことに重大な欠点が見つかりましたが」「あれは予想外でしたね」アナウンサーは刺身にたっぷりとしょうゆ(・・・・)をつけた。「両親の能力をしっかり受け継いだのに、性格は父親にも母親にも似なかったという」
「おとなしい子でしたね」騎手は生物が苦手なのか、箸をつけようとしなかった。「ヒラクイーンのデビュー戦、今でもはっきり覚えてますよ。さあこれからいっしょに伝説を作るぞと意気込んでました。ところが、いざゲートが開くとヒラクイーンは走ろうとしなくて。僕がどんなに励ましてもけしかけても、一歩も動こうとしませんでした」
「臆病な馬というのはめずらしくない」馬主は刺身をむしゃむしゃ食べつつ、杯をあおった。「草を食う動物だからな。気が弱くて神経質なのはむしろ当たりまえのことだ」
「ヒラクイーンの場合は度が過ぎてましたね」とアナウンサー。
「メンコをつけても効果がありませんでしたから」調教師が歯がゆそうに言った。「練習では伸び伸びと力強く走るんですが」
「僕もヒラクイーンの真の実力が知りたくて厩舎におじゃまさせてもらいましたけど」騎手がしみじみ言った。「とにかく速いし、身のこなしが軽やかで、乗っていて楽しい馬でした。乗馬の原点を思い出させてくれる子でしたよ」
大皿いっぱいの刺身があらかた食べ尽くされたころ、今度は鍋の用意がととのえられた。「惜しいな」馬主がくやしそうに言った。「実に惜しい。莫大な金を稼ぎ出してくれるはずの馬だったのに」
「お金だけの問題じゃないですよ」とアナウンサーが口を挟む。「ハネダブラウン以来のスターになれる馬でした。あのころのように競馬がまたワッと盛り上がるきっかけを作れる逸材でしたよ」
「高羅可記念のレースでは奇跡が起きたと思ったんですがね」調教師が具材を鍋に入れながら言った。「それまでまともにスタートすらできなかったサクラヒラクイーンが、爆発的に走り出したんですから」
「あのときも僕が乗ってましたけど」騎手が後を引き取った。「ついにヒラクイーンが本領を発揮したと、鳥肌が立ちましたよ。まさに稲妻のような走りっぷりでした。ぶっちぎりで行けるかと思ったんですが、他の馬も速くて接戦になったんですよね。初勝利まであとすこしというところで 」
「最終のコーナーで他の馬にぶつかって転倒、後続の馬に踏まれて全身を複雑骨折」馬主は肩をすくめた。「ツキのない馬だったということだ」
「僕は運よく放り出されたんで、馬に踏まれずにすみましたけど」と騎手。「あぶないところでした」
「鍋が煮えたぞ」馬主が言った。「肉が固くならないうちに食おう」
アナウンサーと調教師はもりもり食べはじめたが、騎手は箸をつけようとしなかった。「どうした?」と馬主がたずねた。「明日もレースがあるんだろう。精力をつけないと」「僕は馬刺もさくら鍋も食べたことがなくて。それに、これはヒラクイーンの肉なんでしょう? みなさん、よく平気で食えますね」