佳作「桜狩り 家田智代」
出張先での仕事が思いのほか早くすんで、ぼくはのんびりレンタカーを運転していた。本日は会社に戻らず直帰する予定。時間には余裕がある。
時は春。まだ日が高く、ぽかぽかと暖かい。せっかく自然が豊かな土地にいるのだから、花見でもしていこう。
取引先の会社の人に桜の名所を聞いておけばよかったと、一瞬、軽い後悔の念がよぎったが、見れば山や畑のそこここに、ピンクにけぶる桜がある。
なんだ、見放題じゃないか。後悔の念は消し飛び、ぼくは最もピンク色の濃い、近くの丘に向かって車を走らせた。
丘には何本もの枝垂れ桜が寄り集まって咲いていた。お日さまの光を浴びて、まばゆく輝く桜色の世界が一面に広がっている。
車から降りて桜の一群に近づく。どれも古木だが、あふれんばかりに花をつけて咲き競っている。美しい、という以外の言葉を思いつくことができなかった。
夢の中にいるような気分で、桜の木の間を歩く。人がいなくて、ゆっくり花を鑑賞できるのも素敵だ。
スマホを取り出し、夢中で写真を撮った。どこもかしこもきれいで、絵になる。地元の人は見慣れているから気づかないのかもしれないが、ここの桜は本当にすごい。
ツイッターで紹介したら大人気になるかも、と思った。ぼくだけが知っている穴場。そんな言葉が浮かんで、少し得意な気がした。
それにしても、平日の昼間とはいえ本当に人がいない。急に居心地の悪さを感じて帰ろうとしたとき、シートを敷いて酒やつまみを並べているグループを見つけた。なんだ、人がいるじゃないか。
花見をしていたのは若い女性が三人。古風な感じの美人ばかりだ。普段なら声をかける勇気はないが、そこは出張帰りといえど旅先の気安さ。何気ないふうを装って「みごとな桜ですね」と言ってみた。
無視されることもなく、みんながニッコリしてくれたことに勇気を得て続ける。
「地元の方ですか?」
「私たち、桜の精ですの」
ころころと笑う彼女たちは、だいぶ酒が回っているようだ。ほおが、ほんのりとピンク色に染まっている。
「ようこそ、人間のお客さま。本日は桜狩りの日。さ、御酒を召されませ」
言っていることがよくわからないが、美女と話せて嬉しいので話を合わせる。
「紅葉狩りならぬ桜狩りですか」
「よく御存じですのね。さ、御酒を」
「車なので」と断りかけたが、旅の思い出に一杯飲むのも悪くない。車は、あとでレンタカー会社の人に回収してもらえばいい。
すすめられるままに飲んだ。うまい酒で、たちまちいい気分になった。
「こりゃ、酒が回らないうちに帰らないと」
「あら、いやだ。帰しませんことよ」
「嬉しいけど、そうもいかないんで」と言いかけたところで女性たちの顔が変わった。人形浄瑠璃で、美しい女の人形の顔が一転して鬼の形相になるときのように。
ぼくは一目散に逃げ出した。鬼女たちは鋭い爪を振りかざし、牙をむき出して「帰すものか。狩ってやる」と追いかけてくる。
必死で走って逃げているというのに、歌舞伎だか能だかでこんな話があったな、なんてのんきなことが頭に浮かぶ。お話では神さまが助けてくれるが、その展開は期待できない。自力で何とかするしかないだろう。
あいつらは桜の精とか言っていた。桜の弱点は……毛虫! 女性は毛虫、嫌いだしな。いや、今、毛虫を集めている暇はない。やはり車で振り切るしかない。とにかく、車までたどりつかなくては。
走りに走って、命からがら車の中に逃げ込む。かかれ、エンジン! 気分はスティーブン・キングの『クージョ』の主人公といったところだ。
幸いなことにエンジンはすぐにかかり、へばりつく鬼女たちを振り落として、車は猛スピードで走り出した。助かった! 飲酒運転もスピード違反もNGだが、そんなこと言ってる場合じゃない。
町につくと、ぼくは興奮ぎみにレンタカー会社の人に、ことのしだいを話した。さぞ驚くかと思った相手は意外にも冷静だった。
「はあ、やっぱり本当なんだね」
聞けば、あの丘は昔から行くなと言われている禁域で、地元の人は誰も行かない。言い伝えが風化しかけ、あそこを桜の名所として町興しに使おうという話が出るたび、誰かが足を踏み入れてひどい目に遭って、やっぱりやめておこうということになるそうだ。
力が抜けた。あそこは、ぼくだけが知っている穴場ではなかった。ぼくだけが知らなかった禁区だったのだ。