佳作「山の桜、川の桜 小野田佳恵」
春の陽気に誘われて、小高い山へと続く細い道を上っていった。
しばらく行くと、片側一車線の少し広い道に出た。緩やかなカーブに足をまかせていると家並みが切れ、景色が空へと広がった。道の向こうに、桜が一本立っていた。
無風のなか、ごうごうと音をたてるように、枝いっぱいの花が燃えていた。白い花の気はもやもやと天に昇り、満開の花びらは一片たりとも散っていない。あまりにあまたの花が誇って、桜は視界の全てを占める巨木に思えた。
しばらく鎮まっていた思いが湧きだしてきた。
スマートフォンを桜に向けて写真を撮り、考えあぐねて場所だけを記し、彼に送った。はっと顔を引きしめて、あたりを見回す。幸い人影ひとつない。三十路女のにやにや笑いは露見せずに済んだらしい。
土曜の午前中、彼は家にいるはずである。間をおかず感嘆の言葉があらわれることを期待して手の内を見つめていたが、液晶の光は黙りこくったままである。
一緒に花見を、と一言送った。せっつくように、会いたい、と送り、堰を切ったように、どこにいるの、何しているの、返事をください、愛しています、と立て続けに送った。
桜に引き寄せられて一歩二歩行くと、鋭いクラクションの音に遮られた。睨みつけるようにして黒いワゴンが目前を横切る。なびいた髪が頬を叩く。上ってゆく車の背を見送ると、ふもとへと首をねじり、次は彼の車が上って来るのではないかと目を凝らす。
スマホが震えた。素早く目元に上げると、携帯電話会社からの広告である。たまらなく侘しくなって、大勢のなかに救いを求め、人差し指を動かした。
スマホの向こうの不特定多数に向かい、彼の不実をばらまいた。共感を得るための虚実であるが、すぐに数人から慰めや励ましや、彼に憤る声が届いた。
心強くなり、わたしはまたありもしない彼の加害を発信した。さらに反応は広がった。見ず知らずの者たちが次々と理解者になってゆく。みじめさは、発信するごとに快感へと変化した。指は止まることなく言葉を吐き出し続けた。行為をふりかえる間もなく、吐き出した以上の声が押し寄せてきた。飛び交う言葉のひとつひとつがきざはしのように、わたしの心をたかぶらせてゆく。
あおりたてる声々のなかにひとつ、冷たくたしなめる言葉が届いた。中傷、つきまとい、犯罪、といった単語を含んだそれは、彼の話しぶりにとても似ていた。
泡立っていた血が、すっと下がった。ひと気のない山道で、わたしは桜の前にひとりきり、食い入るようにスマホを見ながら、何時間も立ち尽くしていたのである。
叫びたい思いで坂を駆け下りた。すこし叫んでいたかもしれない。襲いかかる桜の妖気から逃れようと、すぼまった方へ暗い方へとまろびおりた。肺がちぎれそうで、足がもつれる。止まるとたちまち、とらわれてしまうような気がした。
かすかな風が頬に触れた。水の流れる音がする。
音に励まされて進んで行くと、小路を抜けて突然、圧するほどの光に包まれた。天からの広い光と川面に弾かれた細かい光が、わたしの身に降り注いでいる。
いつしか川べりまで下りていたのだ。
澄んだ浅いせせらぎが、川底の石を洗っている。波先に輝く三角の光と、散り浮いた桜の花びらとが、競い合いながら川下へと流れてゆく。川のほとりの桜並木はすでに花を落としはじめていた。次から次へと、終えたものは枝から離れ、波に落ち、光と睦みあいながら流れ去ってゆく。
唐突に、城跡の公園の、堀にせり出した桜を思い出した。
堀の面に浮いた花びらは、どこへも流れてはいかなかった。緑の水へとせり出した枝の形に白桃色の半円を描き、溜まった花びらの外周は揺れてはがれて年輪のように、隙間に暗い水をのぞかせていた。花がすべて落ちた後も、茶色く変色した花びらのたまりは幾重にも黒い水の亀裂を生じ、輪郭を歪ませた見苦しいごみとしていつまでもそこに浮いていた。
彼とは、もうとうに終わっているのだ。なのにわたしはいつまでも、彼の心が戻ると信じて慕情を訴え続けている。
あきらめるなとけしかけるスマホを手放せないままわたしは、川面の光に身をゆだねては去ってゆく潔い花片を瞳に映していた。