佳作「フォト 近藤ゆみ子」
日曜の午後、忠と房代は、掃き出し窓の側で向かい合って座っていた。忠は爪を切るのに、明るい場所が都合良く、房代は取り込んだ洗濯物を畳んでいた。
ベランダの踏み台に、ついさっき房代が脱いだ、ビニールサンダルがハの字になっている。長年の紫外線と雨ざらしで、元の色が分からない程に、褪せてくたびれたサンダルだった。
俯いた房代の顔は、五十六歳の年相応に、輪郭がたるんではいたが、透明感があった。初夏の日差しを跳ね返すような、明るい肌だった。数か月前とは別人のようだ。
いつの間にか、爪を切る音が途切れていた。
「なに見てるのよ。私の顔に何か付いてる?」
「べつに」忠は、老眼鏡の奥でまばたきを重ねると、足の爪に取り掛かった。
測ったように同じサイズに畳まれた忠のシャツ類が、房代の手によって積み上がっていく。その一連の動きは淀みない。房代はいまにも綻びそうな口を引き締めて、感情を隠していた。
初めてクリニックを訪れた日、季節は冬だった。美容外科の看板は、敷居が高かったが、肌の時間を巻き戻したい一心だった。病気ではないので、もちろん健康保険は使えない。
日本人離れした鼻筋の看護師が、施術台に仰向けになるように、房代を誘導した。「ちょっと冷たいですよ」と水あめのようなジェルを、顔にたっぷりと塗った。エステサロンに行ったことはないけれど、きっとこんな感じかと想像する。
「フォトフェイシャルを受けるのは、初めてですか?」聞かれた房代は緊張して頷いた。
「フラッシュのような光を当てるだけですから、肌への負担も少ないんです。何度か通って頂ければ、頑固なシミも消しゴムで消したようになりますよ」
本当にそうなら、鈍感な夫もきっと気がつくだろう。
「目を守る為に、マスクをしますね」
瞼にゴムのようなものを乗せられながら、房代は感心していた。高い基礎化粧品に頼らなくても、特殊な光の消しゴムで、シミが消える時代が来たのだ。娘時代に「色が白いは七難隠す」と叔母から言われた事がある。まるで、容姿に七難あると、烙印を押されたようで憮然としたが、確かにその当時は餅のように白く、ハリがあった。
年齢と共にシミが広がり、肌の手入れが必要だとは感じていた。それでも安い化粧水をドラッグストアの棚から選んで、チビチビ使っていた。家族や家計の事を考えて、自分の事は後回しにしてきた。
いまになって房代を行動に駆り立てたのは、忠の浮気だった。ホステスに入れあげ、勝手に貯蓄を切り崩していたのだ。間もなく関係は終わったが、忠は最後まで謝ることもなく、だんまりを決め込んだ。昔は互いに情熱を注ぎ合った、恋愛時代もあったのに……。房代は悔しくて涙がにじんだ。
「では、始めますね。パチンと軽く感じる程度ですから」
ペンライトの先端のようなものが左頬に押しつけられた。アイマスクを透過するくらいまぶしい光が広がる。
「イタッ」輪ゴムで弾かれたような衝撃。
「大丈夫ですか? 初回ですから、慣れるまでライトの出力をもう少し下げますね」
「いえ、いいんです。びっくりしただけです。思い切りやっちゃってください」
これが腕や脚ならどうということはないが、顔ということの不安で、過剰に反応してしまう。大枚をはたくのだから、元を取るためにも我慢のしどころだった。綺麗になって見返してやるのだ。
もう一度、冷たくて固い物を頬に当てられた。敵を向かい打つつもりで身構えた。
「あ、先にお聞きしますが、残しておきたい物はありますか?」
妙な質問に、房代は初めて笑顔を見せた。
「そんな物ありません。目鼻口だけ残して、全部消しゴムで消してください」
美容外科の件は、墓場まで持っていく秘密のつもりだった。茫漠と広がっていたくすみ、泥水が跳ねて乾いた跡のようなシミは、もう過去の話だ。若返り医療万歳。新しい自分よ、こんにちは。
「……しかし」忠が口を開いた。
「何よ」房代は、しれっと問うた。
「おまえの口元にあったホクロが、消えた」
言われて初めて気がついた。結婚前、忠が色っぽいと言ってくれたホクロ。
「不思議な事があるものだな」忠は首を捻って立ち上がり、新聞紙の爪を庭の向こうに放った。
房代は一層顔を白くし、踏み台の上の、古ぼけたサンダルを見つめていた。