佳作「消えない消しゴム 井中蛙」
湯を入れたカップ麺が机に置かれて三十分が経っていた。私は彼に「食欲がないの?」と訊いた。彼は何も言わずに眠ったふりをしている。ときどき顔を手で強くこする。本当に眠っているのかもしれない。今までの私ならインスタント食品だけでは身体に悪いと言って、野菜を足したり、卵を落としたり、いろいろな世話をした。しかし今の私には、もうそんなことはできない。私と彼は、いつすれ違ってしまったのだろう。思い出そうとするが、記憶が淡くなっている。彼はひとりでは何もできない、一途な子供のような人だ。お金がないのに、ラジコンが欲しいと駄々をこねたり、突然、自転車の二人乗りがしたいと無理を言ったりする。よく分かったと思うけど、自転車の二人乗りは立派な交通違反で危険です。ほら、カップ麺のお汁がすっかりなくなって、焼きそばみたいになってるじゃない。私がそう言っても、彼は動こうとしない。冷めたカップ麺の横には、私が彼にあげた消しゴムが転がっていた。
「この消しゴムは『消えない消しゴム』なんだ」彼が突然つぶやいた。
「消えない消しゴム? 消しゴムは消すためにあるもんでしょう。消しゴムが消えなかったら意味ないよ」私が答えると、彼は耳を貸さずに、自分が書いた小説のことを語り始めた。
「この小説は君をモデルにして書いた初めての私小説だ。タイトルには君の名前をつけた」
私は小説を見た。小説には彼が私と初めて出会った日のことから、別れる日までのことが書かれていた。物語の後半に『消えない消しゴム』のことが書かれている。
――『消えない消しゴム』それは僕が彼女からもらった宝物だ。僕は作家になることを夢見ている。ワープロが苦手な僕は原稿用紙で小説を書いている。万年筆は使わない。貧乏な僕は書き損じた原稿用紙を捨てる勇気がないからだ。それで彼女の提案で鉛筆を使って小説を書くことにした。小学生のようだが、鉛筆であればいつでも消すことができる。しかし彼女が僕に別れを告げてから、この消しゴムは使わないことに決めた。僕は彼女の存在を永遠に忘れないために、この消しゴムを残すことにした。使わない消しゴムは一生無くならない。消しゴムがある限り、彼女の記憶は僕から消えない。僕だけの『消えない消しゴム』だ。
相変わらず独りよがりで、幼稚な文章は変っていないわね。でも、今の私には重すぎる。私のことは早く忘れて、あなたにふさわしい人と出会って、幸せな結婚をしてほしい。最後の章をみると自転車のことが書かれていた。蘇る記憶に胸が痛んだが、意を決して読んだ。
――二ヵ月前。突然悲劇が二人を襲う。原因はこの僕だ。僕の短編小説が小さな社の雑誌に載った。僕は舞い上がり、彼女を自転車の荷台に乗せて二人乗りをした。交差点でよろけた僕たちは、トラックに接触してしまった。彼女は内輪差によって大きなタイヤに巻き込まれた。
小説のラストには、私と彼の人生がすれ違った瞬間が書かれていた。一方的に別れを告げてしまった私は、今は近くで彼を見守ることしかできない。私が死んだのは誰のせいでもない。ただ残念なのは、手のかかる彼の世話をすることができないこと。だから彼には一日でも早く私のことは忘れてほしい。そうしなければ私は安心して、ここを離れられない。これが安っぽい小説なら、私があの世から白い手を出して、小説に書かれた私の名前と記憶を消すことが出来るのに。残念ながら幽霊になってしまった私には、消しゴムをつかむことすらできない。消しゴムのように、人の哀しみは簡単に消すことは出来ない。どうすべきか迷っていると、彼がまた何度も顔をこすった。顔には涙が沢山流れた後があった。彼が流した涙と何度もこすったせいで、小説の表紙はくしゃくしゃになっていた。見ると小説に書かれていた私の名前であるタイトルもいつの間にか消えていた。私が何も出来なくても。思いはいつか、どこかで通じる。そう分かったとき、私はやっといく決心がついた。今なら四十九日の忌明けに旅立てる。短い間でしたが、あなたと一緒に過ごすことが出来て私は幸せでした。本当にありがとう。最後に小説のタイトルは『消えない消しゴム』というのはどうでしょう。