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選外佳作「櫛作法 群青更紗」

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第26回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「櫛作法 群青更紗」

娘の沙良が七歳になったとき、義姉の露子がつげ櫛をくれた。京都の職人が作ったというその櫛は、柄に細かく雅な彫り装飾が施され、艶々と光っていた。敏江は最初、「こんな高価なものを」と遠慮したが、「一生使えるものだから」と言われて素直に受け取ることにした。露子には子がいない。姪である沙良を、娘のように思ってくれているのだろう。沙良もよく懐いているし、好意に甘えることにした。

大人の手にスッポリ収まるその櫛は、まだ小さな沙良の手にも馴染んだようだ。「おばさん、ありがとう」と喜ぶ沙良の髪を、露子は早速梳いてやりながら、使い方や手入れの仕方を話して聞かせた。「かんざし」と書かれた美しい箱の中には、櫛のほかに櫛入れ、椿油、ブラシ、布が収められていた。敏江も一緒に話を聞いた。

「この櫛は一度、椿油に漬け込んであるから、梳かすだけで髪が綺麗になるのよ。その油が切れないように、一日一度、椿油を指先に付けて、櫛の歯先に塗ってあげて。歯の間の汚れが気になったらブラシをかけて、布で拭いてあげるの。水洗いは絶対にダメ。持ち歩けるように櫛入れも付けたけれど、傷んできたら教えてね」

それから、と露子はもうひとつ、櫛にまつわる大切な決まりを説いた。正直敏江は、つまらない迷信だと思った。しかし沙良は真剣だった。以降、沙良はその決まりを頑なに守り、敏江にも他の家族にも強いた。

沙良は毎日、つげ櫛を使った。毎朝椿油を塗って梳り、週に一度はブラシをかけ、ほとんど毎日布で磨いた。沙良の髪は艶々と輝き、美しく伸びた。羨ましくなった敏江はつい「貸して」と頼んだが無下に断られた。代わりに次の敏江の誕生日に、沙良は露子に連絡を取り、同じ「かんざし」セットをプレゼントしてくれた。敏江は喜んで使い始めた。あの迷信も、今は信じて守っている。

「ふうん、こんなの使ってたんだ」

帰ろうと廊下を歩いていた沙良が振り向くと、真帆が沙良の櫛を手にしていた。うっかりポケットから落としたのを拾ったらしい。沙良は顔を曇らせて真帆に寄った。

高校生になった沙良は、真面目で優秀な生徒として、周囲から一目置かれていた。一方の真帆は、お洒落と異性と目立つことに価値を置いており、沙良は地味なのに目立つと目の敵にしていた。大掛かりないじめは行わないものの、時折チクリと嫌味を言ったり、他人の目を盗んで小さな嫌がらせをしていた。沙良は気にせず過ごすよう努めたが、それでも内心辟易していた。

「返して」

沙良の小さくも鋭い声に、真帆はフンと鼻を鳴らした。

「ダッサい。女子高生が木の櫛なんて、おばあちゃんみたい。さすが、地味なあんたにはお似合いだわ」

そう言い放つと、真帆は櫛を櫛入れに戻し、ポイッと近くへ放り投げた。櫛は一度カツンと跳ねると、カラカラと回転しながら隅へと転がった。真帆はフフンと哂い、沙良の横を通り過ぎていった。

真帆が去るのを睨んだあと、沙良は櫛を拾うべく近付いた。と、そこへ担任が通りがかった。

「あら、落し物?」

先ほどの不穏をまるで知らぬ様子の担任は、にこやかに言って櫛を拾おうと屈んだ。が、

「拾わないで!」

「え?」

沙良の叫びに、担任は固まった。沙良は急いで駆け寄ると、上履きで櫛を踏んだ。呆気に取られる担任を尻目に、沙良はサッと櫛を拾った。

「――ごめんなさい。でも、良かった」

沙良は櫛入れを軽くはたくと、中の櫛を取り出し、ギュッと握った。

「先生に、私の不幸を拾わせる訳にはいかないので」

ホッとしたように微笑む沙良を、担任は狐につままれた思いで観た。

その日の夜、恋人の無免許運転バイクに二人乗りしていた真帆は、恋人の無茶な運転によるスリップで重傷を負った。休学から留年となり、その後退学した。その後の消息は沙良の預かり知らぬところである。

【櫛(くし)】

髪を梳いたり飾ったりする道具。「霊妙なこと、不思議なこと」という意味の「奇し」「霊び」が語源だが、その読みが「苦死」に通じることから、落ちている櫛を拾うことは「苦死を拾う」として縁起が悪いと忌み嫌われる。どうしても拾わなくてはならない時は足で踏み清めてから拾う。また贈り物にするときは、忌み言葉として「かんざし」と呼ぶ。