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佳作「五月 野々瀬あき」

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TO-BE小説工房
第26回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「五月 野々瀬あき」

いい天気だ。朝の通勤通学ですっかり心拍数の上がってしまった街は、ようやく呼吸を整え、ちょっとだけリラックスしている。そして、今頃教室にいるはずの僕は、公園のベンチでぼんやりと脱力している。なかなか座り心地のよいベンチだ。五月の公園は、寛容だ。そう思いながら。

僕は今朝、寝坊した。そのうえ駅に向かう途中で激しい腹痛に襲われ、コンビニのトイレに駆け込んだ。そして、ようやく腹痛から解放されて店を出たときには、気持ちは固まっていた。僕は、今日、学校には行かない。

一限目は世界史だった。オリエントと地中海世界は終わったから今日からインド古代世界だろう。僕の成績は悪くない。世界史も好きだ。遅刻もそんなに気にするほどのことではないと思っている。では、なぜ、行くのをやめたのか。自分でも驚いている。ただ、最近感じていた漠然としたモヤモヤが、今日に限って行動を起こしてしまった。そんな風に自己分析してみる。まあいいさ。学校を休む理由なんて。

さて、これからどうしよう。急に思いついたことなので何のプランもない。芝生の上に放り投げたカバンに手を伸ばす。すると、足元に何かあるのに気づいた。黄色い小さな靴下が片方だけ。それは、たった今誰かの足を離れましたという感じでそこにあった。僕はその形を崩さないように手のひらにのせてみた。まるでヒヨコみたいだ。まだ新しい赤ちゃんの靴下。母親はきっとあわてて捜しているだろう。僕は靴下をそっとベンチの真ん中に置いてみた。ここなら少しは目立つだろう。

僕はヒヨコの右隣に座り、とりあえず世界史の資料集を広げてみた。地図や写真を何となく見るのが、僕は好きだった。その昔、アーリヤ人はカイバル峠を越えて中央アジアからインドへ侵入してきた。見てごらん、カイバル峠ってこんなところにあるんだよ。ヒヨコに教えようとしたとき、僕は思わず自分の目を疑ってしまった。いつの間にかヒヨコの左隣に白髪頭のおばあさんが座っていたからだ。しかも黒い犬と一緒に。

そのおばあさんは、まるで僕の存在に気づいていないかのように真っ直ぐに遠くを見ていた。僕がぽかんとおばあさんの横顔を見つめていると、犬の視線を感じた。黒い犬はよく見るとなかなか賢そうで、くわしくは知らないけれど多分ラブラドールという種類ではないかと思う。りっぱな首輪とリードをつけている。犬は静かに僕を見上げ、そしてヒヨコを眺めた。おばあさんは、相変わらず黙って遠くを見ているだけだ。何だか犬のほうが状況を把握しているみたいだった。「悪いねえ。別に迷惑かけないと思うから、ちょっとしばらくの間、このままでいいかな」僕には、そういってるように思えた。

まあいいか。それにしてもさっきまで僕一人だったベンチが急に賑やかになった。みんな無口だけど……。もう一度おばあさんの横顔をのぞいてみる。おばあさんは、背筋をしゃんと伸ばしたまま目を閉じていた。具合でも悪いのだろうか。ちょっと心配になって、犬の方をちらりと見てみる。「大丈夫、問題ないってば」犬は、いたって冷静だ。ヒヨコは、ベンチの上が気持ちいいのか眠っているようだ。

木々の隙間をくぐり抜けてきたやわらかい風が僕の肌にそっと触れる。僕も目を閉じてみた。遠くで街がざわついている音が聞こえる。いつも通りの街の音だ。芝生の匂い。ひなたの匂い。僕は深呼吸する。僕の中を五月の空気で満タンにする。そして、うんと高い所から公園を見下ろしてみる。街の真ん中にぽっかりと島のように公園が浮かんでいる。ゆっくり降りていくと公園の端っこにベンチが見える。僕とヒヨコとおばあさんがオブジェのように並んでいる。それを見守る黒い犬。なんて美しい風景なんだろう。

「あのう、すみません」

女の人の声で僕は目を開けた。ベビーカーに座った赤ちゃんが僕を見つめている。

「この靴下、どうもありがとうございました」

女の人はそういうと、手際よく赤ちゃんに靴下をはかせた。赤ちゃんは足をバタバタさせながら笑っている。ヒヨコも笑ってる。

「公園の入り口で、犬を連れたおばあさんが教えてくれたんですよ。ベンチでイケメンが靴下を見張ってるって」

女の人も、くすりと笑った。

いつの間にかおばあさんと犬はいなくなっていた。僕はパイパイと赤ちゃんに手を振ってみた。赤ちゃんは愛想よく両手を振ってくれた。カイバル峠はね、その後、アレクサンンドロスや三蔵法師も通ったんだよ。遠ざかるヒヨコに僕は語りかける。インドに行くためには、みんなそこを通らなくてはいけないんだ。大変なおもいをしてね。

僕は立ち上がり駅へ向かう。今日は、本当にいい天気だ。