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第16回「小説でもどうぞ」佳作 遊んで暮らしたような日日/七積ナツミ

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第16回結果発表
課 題

遊び

※応募数206編
「遊んで暮らしたような日日」
七積ナツミ
 川田喜久壽きくじゅ、九十二歳。「人生は六十から」と書かれたシルバー人材センターにもらった湯呑み茶碗に緑茶を注ぐ。湯呑みに書かれた六十歳以降、七十代、八十代、九十代、百歳に至るまでの心構えを確認してから、満足してお茶を啜る。八十代になってやっと自分の名前が年相応になるのを感じた。いくら昭和始めの生まれだとしても、小学生の「喜久壽」なんて名前ばっかりすごすぎる。自分自身で書くことすらままならない。人生の大半は名前が良すぎてバツ悪く過ごした。自分だけじゃなく、周りだってきっとそうだ。みんな、もういなくなって、今は一人、静かに暮らす。たまに遊びにくる近所の黒猫がじゃれついて、また帰っていく。
 世間から見れば九十を過ぎた男の一人暮らしなんてさぞかし侘しく、物憂げに感じられるだろう。その実、案外忙しい。有り難いことに、大病することなく、この歳になっても自分のことくらいは自分でできている。歳をとって、一体いつになったら体が動かなくなり、起き上がれなくなるかと心配に思うが、今のところ、特段困るような変化はない。
 日の出と共に目覚めたら、湯を沸かし、顔を洗って髭を剃る。沸いた湯で緑茶を入れて仏壇に供える。一息、自分でもお茶を飲む。新聞を読んで、最後に今日の運勢を確認する。「十二月生まれ。ポケットの中に大金が。誰にも言わない方が良い。……ほう」朝ごはんを食べて猫に餌をやり、片付ける。ここまでだって若い頃から比べたら数倍の時間がかかる。目がよく見えないこと、耳がよく聞こえないこと、体の節々が痛いことが主な原因だ。負担を減らすためになるべくゆっくり動く。たかだか自分の体でも、時々に合わせてうまく付き合うことだ。どんな状況にだって落ち着きどころがあるものだ。ゆっくり動いて、ゆっくり朝の時間を送る。朝食の片付けを済ませたら、洗濯機を回しながら、家中を箒で掃く。畳を水拭きする。縁側で一休みしながら、庭の様子を観察する。晴れたら洗濯物は庭の物干しに干し、午後には庭の手入れをする。雨なら縁側の明るく広い部屋に洗濯物を干し、自室に入って写経する。週に二日は朝早く迎えのバスが来てデイサービスに遊びに行く。日々同じ繰り返しのようでいて、日ごとに少しずつ違う。毎日の様子も季節を追って変化して、自分の体調も移ろいながら一日ずつが過ぎてゆく。
 デイサービスですごいのが、素っ裸になり仁王立ちで踏ん張って立っていれば、係の人が全身を隈なく丁寧に洗ってくれることだ。初めは何だか申し訳ない気持ちで立ったが、今では慣れて、殿様のような気分を味わう。施設の食堂で作られる手作りの昼食は毎回メニューが変わり、美味しく楽める。施設内では休憩室で横になって昼寝をしてもいいし、その日にいる人と世間話をしたり、係の人が用意した塗り絵や工作をしてもいい。何十年も会っていなかった小学校の頃の同級生に遭遇することもあれば、若い頃は外国で仕事をしたと話す知らない町の出身者に出会うこともある。話が嘘でも本当でも人と話すのは楽しい。こちらの耳も頭もぼんやりしていて、聞こえた内容が正しいか分からないこともあるが、あまり問題ではない。自分の話したいことを話し、相手の話に耳をそばだてる。その対話の繰り返しが心地よい。元気な人に会うのも嬉しい。百歳になった活子さんは車椅子を自在に操り、施設中を好きに動き回っている。声を掛けて話をしてもよく分かるから感心する。たまに自分が百歳になることを想像してみる。歳をとったら、娘息子が家に戻って面倒を見てくれるはずだと思っていた。若い自分がそうしたように。そうではなかった。それでもそれなりに人生は進んでいく。
「おじいちゃん、どした? 元気にやってる?」
 デイサービスに行かない日の楽しみは孫娘の七奈が気まぐれに顔を出すことだ。三十代になって結婚もせず、働き盛りだと言って、方方を走り回っている。家に来るときも嵐のようにやって来て、嵐のように去って行く。七奈が去った後には、食べ物やら、洋服やら、栄養剤やら何やらが山のように積み上がっている。その山を一つずつ崩しながら、若いということは結構なことだと、七奈がいた余韻を楽しむ。たまにアジアの国のおかしな食べ物や、外国語ばかりが書かれたお菓子が混じっていて、七奈の行動範囲に思いを馳せる。七奈を見ていると新聞を思う。毎日読んでいる新聞の中で七奈が泳いでいる姿を想像する。
 その日、庭の柿の木の辺りが、キラキラと白く光っているように見えた。何だと思い、縁側の腰掛けに座った。眺めていると、キラキラは辺り一面に広がり、いつもの庭の景色が格段、綺麗に見えた。珍しく息子の壮一が来ていて、声を掛けられたが今一分からなかった。
「いやあ、景色が違って綺麗に見えるんだ」 
 それからのことは自分でもよく分からず、壮一に抱えられてどこかに運ばれていった。
(了)