第17回「小説でもどうぞ」最優秀賞 愛しい人/渡鳥うき
第17回結果発表
課 題
家
※応募数253編
「愛しい人」
渡鳥うき
渡鳥うき
会社の昼休み「平井君、ちょっといい?」と、三年先輩の中村さんに声を掛けられた。「はい、なんですか」僕はすぐ姿勢を直した。
「今日仕事のあと時間ある?」
彼女は僕をじっと見つめた。ほっそりした色白の韓国系美人。斜め向かいにいる彼女をいつも見ていたが、ふたつの机以上の距離に近付かれるとあんまり綺麗でドギマギした。
「ああ、はい。なにもないですけど……」
うわずった声で頷いた。
「そう。じゃあ仕事のあと、私の家に来てもらえない? ちょっと見てほしいことがあるの」
見てほしい、の意味について目で問うと、彼女は軽く結ぶ口許で答えた。一秒の沈黙ののち「じゃあ、あとで」と中村さんは自分のデスクに戻った。
早る鼓動を押さえ、マーケティング部の華で、絶賛片思い中の中村さんをちらと見た。個人的な会話をしたのは多分初めてで、彼女が自分の名前を知っていたことも驚いた。
おとなしく美しい中村さんはミスをしない優秀な人で、周りから一目置かれていたが、一年前から別の意味でうかつに声を掛けられないオーラを纏うようになった。
昨年の十月、彼女は婚約者を交通事故で亡くした。同じ会社の企画部に所属する磯崎さんという男性で、仕事も出来て見た目もいい、とてもカッコいい人だった。部下がミスすれば一緒に謝罪に出向き、自分がリーダーで進めた企画が採用されても「チームのおかげ」とみんなの手柄にし、上司にも率先して意見する。公明正大な人柄で、周りの社員は全員彼を慕い、女性社員の憧れの的だった。
社内でもひときわ目を引く中村さんとの美男美女のカップルに誰も異議を唱えなかった。彼女は彩り鮮やかなおいしそうなお弁当を毎日作る家庭的な人で、僕は斜め前で彼女の美貌と可愛い盛り付けに密かに見とれていたが、叶わぬ恋と二人の婚約を祝福した。磯崎さんは貯金をはたいて新居も買ったが、ひと月後にトラックに撥ねられて亡くなってしまった。
中村さんは彼の逝去後も会社に勤め続け、お葬式から二日で出勤した。
「もっと休んでてもいいよ」
課長も彼女を気遣ったが「なにかしていたいんです」と中村さんは仕事に復帰した。これまであまり話したことのない僕を中村さんが家に呼んだ理由は、さきほどの短いやり取りで察した。
僕は少しだけ霊感がある。だが貞子的なものが見えるわけでなく、何かいるなと感じる程度だ。その話をすると「じゃあ今なんか見える?」とか「どんな守護霊が後ろにいる?」と必ず聞かれるので、なるべく秘密にしていたが、昔の飲み会でポロリと零してしまい、中村さんもそれを覚えていたようだった。
行ってもいいか迷った。彼女は磯崎さんが残した家にひとりで暮らしていて、何かを感じるのだろう。その正体が分かった時に泣かせてしまったらと思うと逡巡が生まれた。
だが終業後に「行きましょうか」と中村さんに言われて断れるわけなかった。閑静な住宅街にある二階建ての家は、よく言えばシンプル、けれど二十代の女性が住んでいるわりには少し殺風景な印象だった。
「実はね、毎晩音が聞こえる気がするの。さわさわさわって葉っぱが鳴るような感じの。それで平井君なら分かるかなと思って」
通されたのは緑側のある八畳の和室だった。まだい草の香りのする、ささくれのない畳。使用の少なさを物語って胸を切なくさせた。結婚前だったので磯崎さんの位牌は彼の家族に返されたらしく、小さな仏壇には生前の笑顔の彼の写真とお線香だけが置いてあった。
僕は周りをゆっくり見回した。確かに感じる。深い海の底のようなゆらゆらした影と、落ちてゆく滴のような募ってゆくひたひた感。
部屋の真ん中に立ち、目を瞑って耳を澄ませた。微かな囁きを取り込めるように心の中を空っぽにした。聞こえたのは風の音だった。
ああこれは……。僕は目を開けて「分かりました」と、胸を押さえながら隅に立っていた中村さんの方を向いた。
「家が中村さんの悲しみを吸い取ろうとしてるんです。泣いてほしくないと家が願っていて、壁に染みた涙を乾かしているんですよ」
会社では一度も涙を見せなかった彼女は、この部屋でひとり泣き続けていたのだろう。ここは磯崎さんの買った家。彼の魂が中村さんを慰めようと、暖かい風を送っていたのだ。
僕を見つめる彼女の瞳から透明な涙がいくつも落ちた。その時にふわりと空から伸びる手が見え、一瞬だけ彼女を抱きしめて消えた。
「どうもありがとう。なにかお礼させて」
帰り際に中村さんが言った。僕はためらいながらも「――じゃあ、あの……」と一度お弁当を作ってもらえないかとお願いした。
「そんなのでいいの?」
くすっと吹き出す彼女は相変わらず美しく、明かりの灯った家は優しい色に満ちていた。
(了)
「今日仕事のあと時間ある?」
彼女は僕をじっと見つめた。ほっそりした色白の韓国系美人。斜め向かいにいる彼女をいつも見ていたが、ふたつの机以上の距離に近付かれるとあんまり綺麗でドギマギした。
「ああ、はい。なにもないですけど……」
うわずった声で頷いた。
「そう。じゃあ仕事のあと、私の家に来てもらえない? ちょっと見てほしいことがあるの」
見てほしい、の意味について目で問うと、彼女は軽く結ぶ口許で答えた。一秒の沈黙ののち「じゃあ、あとで」と中村さんは自分のデスクに戻った。
早る鼓動を押さえ、マーケティング部の華で、絶賛片思い中の中村さんをちらと見た。個人的な会話をしたのは多分初めてで、彼女が自分の名前を知っていたことも驚いた。
おとなしく美しい中村さんはミスをしない優秀な人で、周りから一目置かれていたが、一年前から別の意味でうかつに声を掛けられないオーラを纏うようになった。
昨年の十月、彼女は婚約者を交通事故で亡くした。同じ会社の企画部に所属する磯崎さんという男性で、仕事も出来て見た目もいい、とてもカッコいい人だった。部下がミスすれば一緒に謝罪に出向き、自分がリーダーで進めた企画が採用されても「チームのおかげ」とみんなの手柄にし、上司にも率先して意見する。公明正大な人柄で、周りの社員は全員彼を慕い、女性社員の憧れの的だった。
社内でもひときわ目を引く中村さんとの美男美女のカップルに誰も異議を唱えなかった。彼女は彩り鮮やかなおいしそうなお弁当を毎日作る家庭的な人で、僕は斜め前で彼女の美貌と可愛い盛り付けに密かに見とれていたが、叶わぬ恋と二人の婚約を祝福した。磯崎さんは貯金をはたいて新居も買ったが、ひと月後にトラックに撥ねられて亡くなってしまった。
中村さんは彼の逝去後も会社に勤め続け、お葬式から二日で出勤した。
「もっと休んでてもいいよ」
課長も彼女を気遣ったが「なにかしていたいんです」と中村さんは仕事に復帰した。これまであまり話したことのない僕を中村さんが家に呼んだ理由は、さきほどの短いやり取りで察した。
僕は少しだけ霊感がある。だが貞子的なものが見えるわけでなく、何かいるなと感じる程度だ。その話をすると「じゃあ今なんか見える?」とか「どんな守護霊が後ろにいる?」と必ず聞かれるので、なるべく秘密にしていたが、昔の飲み会でポロリと零してしまい、中村さんもそれを覚えていたようだった。
行ってもいいか迷った。彼女は磯崎さんが残した家にひとりで暮らしていて、何かを感じるのだろう。その正体が分かった時に泣かせてしまったらと思うと逡巡が生まれた。
だが終業後に「行きましょうか」と中村さんに言われて断れるわけなかった。閑静な住宅街にある二階建ての家は、よく言えばシンプル、けれど二十代の女性が住んでいるわりには少し殺風景な印象だった。
「実はね、毎晩音が聞こえる気がするの。さわさわさわって葉っぱが鳴るような感じの。それで平井君なら分かるかなと思って」
通されたのは緑側のある八畳の和室だった。まだい草の香りのする、ささくれのない畳。使用の少なさを物語って胸を切なくさせた。結婚前だったので磯崎さんの位牌は彼の家族に返されたらしく、小さな仏壇には生前の笑顔の彼の写真とお線香だけが置いてあった。
僕は周りをゆっくり見回した。確かに感じる。深い海の底のようなゆらゆらした影と、落ちてゆく滴のような募ってゆくひたひた感。
部屋の真ん中に立ち、目を瞑って耳を澄ませた。微かな囁きを取り込めるように心の中を空っぽにした。聞こえたのは風の音だった。
ああこれは……。僕は目を開けて「分かりました」と、胸を押さえながら隅に立っていた中村さんの方を向いた。
「家が中村さんの悲しみを吸い取ろうとしてるんです。泣いてほしくないと家が願っていて、壁に染みた涙を乾かしているんですよ」
会社では一度も涙を見せなかった彼女は、この部屋でひとり泣き続けていたのだろう。ここは磯崎さんの買った家。彼の魂が中村さんを慰めようと、暖かい風を送っていたのだ。
僕を見つめる彼女の瞳から透明な涙がいくつも落ちた。その時にふわりと空から伸びる手が見え、一瞬だけ彼女を抱きしめて消えた。
「どうもありがとう。なにかお礼させて」
帰り際に中村さんが言った。僕はためらいながらも「――じゃあ、あの……」と一度お弁当を作ってもらえないかとお願いした。
「そんなのでいいの?」
くすっと吹き出す彼女は相変わらず美しく、明かりの灯った家は優しい色に満ちていた。
(了)