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第17回「小説でもどうぞ」佳作 卵膜/這沢みどり

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第17回結果発表
課 題

※応募数253編
「卵膜」
這沢みどり
 透き通り青みがかった大きな建物の影が、細い畦道に長く伸びて覆い被さっている。遠く向こうには澄んで仄かに黄みを帯びた空に、焼却場の鉄塔が白濁した煙を吐き出して汚していた。目の前の畦道には自転車に乗っている影に透過した細長い俺がどこまでもついてくる。見渡せば畑の間に古い家屋が点在していて、ここらの冬の畑には枯れて跡形もない草花か、何かが溶けたような残骸しか残っていない。時折見つける僅かに咲き残った菊が、地面から低いところで萎れているくらいだ。けれどこんなにも身に差し迫る寒さであるのに、やたら顔面を生肌で撫ぜるような風が吹くのだ。しかし生温いそれを振り払うようにペダルを強く踏込む程、益々絡め取られてゆくように思われる。
 ここも昔は工業地帯であったらしいとの話は聞くが、その面影は残っていない。生産機能を失った工業地帯は取り壊されて一帯が畑になったが、今では育ちが悪いのか、きちんと農作物が植っている様子を見たことがない。
 畦道を抜けて住宅街の道へ入った辺りに俺の実家はある。新築の立ち並ぶこの一帯には珍しく、我が家は未だ瓦屋根の二階建てである。父が他界し、俺と姉が家を出て行った後、母は実家でメダカを飼い始め、実家に帰る度メダカの水槽は大きくなる。ついには俺の部屋にまで水槽は侵食し、俺の本棚やクローゼットは跡形もなく消えていた。

「いいじゃない、あんたは、たまにしか帰って来ないんだし」
 母は洗濯物を畳みながら韓国ドラマを見ている。俺に振り向かずにそう答えた後、畳んだ洗濯物を仕舞いにリビングを出て行った。俺たちが出て行ったせいなのか、リビングはやたらがらりと広い。ここに住んでいた頃は、床に転がった荷物があちこちに点在し、歩くだけで躓きそうになることは日常茶飯事であったはずなのだが。唯一この部屋に鎮座するテレビの画面には土砂降りの雨の中抱き合い、顔を近づけ睦言を交わす三十代半ばの男女が映っている。顔立ちのくっきりした切れ長の目の生白い肌の男と、艶のある髪が濡れて肌にへばりついた目と唇の大きい女だ。互いに存分に視線を絡ませた末、不意に男が目を閉じ女に接吻する。女は一瞬目を見開いて、それから薄目を開いてそれを受け止める。リビングの襖が開いて、母が戻ってきてテレビの前に座った。二人は唇を押し付け合い、執拗に舌先を絡ませた。女の唇は血を塗りたくったように赤かったが、その口紅が雨と接吻で落ちることはなかった。母は猫背の正座で画面の方を向いて座っていた。俺の方から母の顔は見えなかった。母の髪の傷んだ後毛が画面に照らされて時折光るように見えた。
「母さん」
 どうした、と言って振り向いた母は、普段と変わらぬ母の顔をしていた。
「慎ちゃん、どうしたの」
 何も言わず黙っていると、母は再び画面に熱中した。

「ねえ、見てよ」
 母が二階から俺を呼びつけた。俺は階段を登って俺の部屋の扉を開けた。
「ほら、また増えたのよ、新しい子が」
 前に帰った時よりも、水槽は大きくなっていた。さらに、その隣に小さな水槽が導入され、深緑のウキに付いた卵が入っていた。部屋の奥に垂れ下がるカーテンの前の色はベージュだったが、暗幕用の黒いカーテンに張り替えられていた。母が前、メダカたちが眠るために夜は水槽を真っ暗にしなければならないのだと言っていたことを思い出した。
「最初キッチンで育ててたんだけど、もう増えちゃってふえちゃって。こっちに全部移したのよ」
 ほくほくした面持ちで母はこちらに向かって報告した。母はいっそう事細かにメダカたちの飼育に精を出しているらしかった。温度管理から水槽の掃除、妊婦のメスと生まれた卵をヒーターのある水槽に移し、生まれた子メダカたちのために市販のメダカ用の餌を小さくすり潰しているという。母が面倒を見れば見るほど、メダカはますます元気になり繁殖するのだそうだ。
「母さんは神様みたいだね」
「なに言ってんの、むしろ奴隷よ」
「いいから、あんたも早く結婚しなさい。私が元気なうちに、孫の顔見せてよね」
 ふいに脳裏に前妻の姿が過った。乾いて痩せた背を向けて、彼女はいつもベッドに浅く腰掛けたまま煙草を吸った。先端の赤い光が闇の中で明滅して消えた。子供は欲しくない、と言い続けた彼女と、俺は一年後に別れた。
「別にどうだっていいだろ」
「よくないわよ、私あんたのお母さんなんだから」
「子供は何人、欲しいの」
 薄暗い俺の部屋で母の眼が鈍く光った。溜め水の青臭い匂いが淡く鼻を掠めた。
(了)