公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

第17回「小説でもどうぞ」選外佳作 慣れし住処を放たれて/秋田柴子

タグ
作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第17回結果発表
課 題

※応募数253編
選外佳作
「慣れし住処を放たれて」
秋田柴子
 初めて昭三さんにお会いしたのは、もうずいぶん昔。毎日毎日飽きもせず、一緒にこの家で遊びましたね。
 古い柱で背比べし、忍者ごっこで畳を剥がして床下に潜り込んで。よぉく磨き込まれた廊下でスケートの真似事もしましたっけ。
 そうしてお祖母ちゃんやお母さんに怒られるのは、いつも昭三さん。ごめんね、と謝る私に、いいんさ、と笑う優しい人でした。
 私はこの大きな古い家が大好きでした。
 初めて見た時は、もうひとめぼれと言ってもいいぐらい、うっとりと見惚れてしまって。黒光りする屋根の瓦と漆喰の壁。日差しのこぼれ落ちる濡れ縁は丁寧に拭き込まれて、とっても居心地がよさそうで。
 家のまわりは垣根の代わりにぐるりとツツジが植えられて、紅・白・桃と色とりどりに咲き誇っていました。
 どうしてもどうしても我慢できなくて、そうっと中に入ってみたら、奥の座敷が何やらざわざわと慌ただしくて。それが昭三さんの生まれた時でした。
 産湯をつかっておくるみの中でふくふくと眠るあなたの寝顔が何とも尊くて、これもご縁と、私はこの家に留まることを決めました。
 泣いている昭三さんをあやすのは、いつも私の役目。あらあらと覗き込むと、ぱたりと泣くのをやめてじっと私のことを見つめるものだから、家の人もみんな不思議がっていたものです。
「おや、今の今まで泣いてた子が急に笑い出したよ。おかしなもんだねえ」
 この家の誰も私のことは見えなかったけれど、昭三さんだけはまだ赤ん坊の頃から私に気づいてくれましたね。
 一緒に遊ぶようになってからは、毎日が本当に楽しくて。昭三さんが上の学校に進んでからは、さすがに遊ぶこともなくなったけれど、そのぶんたくさん話をしましたし。
「ハルはいつまでも小っさいんだなあ」
 と笑うあなたの笑顔は、いくつになっても優しいままでした。
 この家で育ち、大人になって伴侶を迎え、子をなし、やがて老いていく。いつかは来ると判っていても、やはり別れは辛いものです。
「ハルはこのままこの家に居ればいいんだよ。ここは君の家なんだから」
 それがあなたの最期の言葉。私はぽろぽろと涙をこぼしながら頷きました。あなたに代わってずっとこの家を守っていく、と心に誓いながら。
 でも、昭三さん。ごめんなさい。どうやらお約束は守れないかもしれません。
 この家は、まもなく取り壊されるのだそうです。あなたの息子さんたちが、今日話していました。親父はこの家を残してくれと言ってたけど、こんな古いおんぼろ家、どうしようもないよな、と。
 そうして全部壊したあとに〝まんしょん〟というものを建てるのだそうです。その方がこの土地を有効に使えるから、と言って。
 そうですね、確かにこの家はとっても古い。あちこちひびも入って、冬はすきま風が容赦なく通っていきますし。
 でも、ここが私たちの家でした。歩くたびにみしりと軋む廊下が、いつもあなたの居場所を教えてくれました。
 その家が、なくなってしまうのです。あなただけでなく、この家までが私の前から消えてしまうなんて。
 ずっと一緒に、なんて無理なことは判っていました。でもあなたがいなくなっても、せめてこの家を、この家に住む人たちを守っていけたら。そう思っていたのに。
 ――明日、私はこの家を出てゆきます。
 もうこの家に、私の居場所はありません。私は、昭三さんと共に過ごしたこの家が、木っ端みじんに砕かれるのを見たくはないのです。もっともどこへ行ったところで、この家ほど温かくて居心地のいい家など、見つかりはしないでしょうけれど。
 今夜はこの家での最後の夜。長くこの家を支えてくれた柱や丸太梁ともお別れです。
 子供の頃、並んで寝ころぶ私たちを、この黒く艶めいた欅の梁は何とも温かい眼差しで見守ってくれました。二人で背比べした檜の柱は、キズをつけられたというのに、いつも何故だか嬉しそうで。
 せめて今夜だけは、あなたがたの温もりに包まれて眠りましょう……。

 やがてその古い家は壊され、その跡地には今どきのマンションが建てられた。
 だが相続で揉めた兄弟仲は険悪になり、亡父の遺した会社の業績はみるみるうちに傾いた。先代の頃は豊かで立派なものだったけどねえ、と土地の人間が口さがなく噂する。
 だがいつ見ても小さいままの不思議な童女わらしがひっそりと姿を消したことを知るものは、誰一人とていなかった。
(了)