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第19回「小説でもどうぞ」佳作 胃ろう 安藤みなつき

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第19回結果発表
課 題

もの食う話

※応募数276編
胃ろう 
安藤みなつき

 富田永三郎が脳卒中で倒れた時、周りの皆はこれで彼も終わりだと期待した。親戚一同が彼の枕元に集まり、葬儀の話と遺産相続について揉めていた。それほどまでに彼は嫌われ、かつ、莫大な富を持っていた。彼は一代で、名の知れたフード店を全国へ展開した、企業のトップであった。
「ハイエナどもめ!」
 永三郎は、動かぬ身体のまま、心の中で悪態をついた。意識がないように見えるからといって、決して病人の枕元でそんな話をしてはいけない。聴覚は最後まで残ると言われている。
 彼は執念で息を吹き返し、リハビリに励んだ。そして左半身に麻痺は残ったものの、杖を使えば歩けるようになるまでに回復をした。周囲はおののき、畏怖の念を抱いた。ある者は「化け物」と言ってはばからなかった。
 永三郎が克服できないものの一つに、人類に与えられた娯楽であり、エネルギー補給に欠かせない経口摂取という行為があった。麻痺があるため、食物の一部が唾液と一緒に肺へ入ってしまう。むせて吐き出せればまだ良いが、彼はそれさえできなかった。
「このままでは、誤嚥性肺炎を起こす可能性があります。胃ろうを作る手術をしますか?」
「胃ろう? 誤嚥性……?」
 永三郎は呂律ろれつの回らない口調で聞き返す。
「誤嚥性肺炎は、肺の中に入った食物や唾液から菌が繁殖。肺炎を引き起こし、最悪の場合、死に至るケースもあります。それを避けるため、胃に直接栄養素を送り込む穴をお腹に開け、チューブを通す手術をします」
「もう二度と口から食べることはできない?」
「いえ、それは人によりますが、現在の富田さんにはお勧めしません」
「それをすれば、あと二年生きられますか?」
「富田さん。失礼ですがお年はすでに八十六歳。あと二年生きられるかどうかは、ご本人の体力と気力によります。私が断言できることではございません。ただ、胃ろうの方が、今よりは長生きできる可能性があります」
「生存率は?」
「あくまでも統計としてお聞きください。一年以内の死亡率が三十%以下、三年以上の生存率は三十五%以上。胃ろうは、延命効果があることが確認されています」
 医者は続けて言った。
「何故、あと二年に拘るのです?」
 医者の眼鏡の奥の瞳が、優しく永三郎を捉える。
(私を一人の人間として見ている)
 金や暴力で人をねじ伏せ、トップに君臨し、恐れられ、年を取ってからは財産を狙われる。そんなヒリついた人生を送ってきた彼には、この医者の瞳が心地好かった。
「カウンセラーを呼びましょうか?」という問いかけに、静かに彼は首を振った。
 それから二年。食物を口にすることがなくなると、永三郎は身体が軽くなるのを感じた。
 戦争が終わった時、永三郎はたった八つで、一つ年下の弟と二人生き残った。父も母もいなかった。食べるためには盗みも働いた。ゴミも漁った。その行為は『食べる』というより『喰らう』と表した方が正しい。
 弟がネズミ捕り用に毒を仕掛けられた饅頭を拾って喰った時、彼は十にも満たなかった。苦しむ弟を抱えて、医者の戸を叩いたが、金のない者はないがしろにされた。子供で無知だった永三郎は、ただただ、のたうち回る弟の身体をさすってやることしか出来なかった。
 弟が死んで、彼の中に鬼が生まれた。早く大人になるために、食べられるものは全て食べた。犯罪に手を染めた金で、店を開いた頃、この国は高度経済成長へと入っていた。小さい店の店主、それで満足すれば良かったのだ。細く長く商いして、自分の代で店を閉める、そんな人生もあったはずだった。
 だが、鬼がそれを許さなかった。『喰らえ』と耳元で声がし、腹が減って仕方がなかった。弱者から土地を吸い上げ、下請けを叩き、利益を喰った。法の目をかいくぐり、会社は巨大化し、小さな会社を次々と飲み込んでいく。
 永三郎は何度かグルメ王として雑誌やテレビで取り上げられたが、その頃にはもう料理の味など分からなくなっていた。彼はただ、目の前にあるものを餓鬼が如く喰らいつくしてきただけだ。
 その結果、彼の周りにはメリット目当てに、甘い蜜を吸いたがる者のみが集まった。類友るいともとはよく言ったものだ。
 胃ろうは、永三郎を『喰うという欲望』から解放した。そして、約束の八十八を超えた。
 弟よ……と彼は思う。苦しい息の下、弟は「大丈夫。兄ちゃんと僕は八十八まで生きる」と笑った。何故八十八? と問うと、母ちゃんに八は末広がりでいい数字と、教えてもらったからだと言う。それが弟の遺言となった。
 ふとテレビに目をやる。そこには、内戦や戦争で孤児となった子供たちが映っていた。
 永三郎は看護師に弁護士を呼ぶよう指示をした。彼の富ほぼ全てを寄付するために。
(了)