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第19回「小説でもどうぞ」選外佳作 活きている 稲尾れい

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第19回結果発表
課 題

もの食う話

※応募数276編
選外佳作 
活きている 稲尾れい

 お品書きをもらい、お目当てのうどんすきのページを開くと、具材の欄に『車海老(いけ/茹で)』とあった。今日は京橋に用事があり、折角だからちょっと良いものを食べて帰ろうかな、と以前から気になっていたこのお店に足を延ばしたのだった。本店は大阪にある、出汁にこだわったうどんすきが名物のお店だ。
「活海老がおすすめですよ。本日は特に大振りの、すごく良い海老が入っておりまして!」
 先程私にお品書きを渡してくれた中年の女性店員が、お茶とおしぼりを置きながら言う。その勢いに押され、とっさに「あ、じゃあ活で」と答えてしまった。で、活とは具体的にどんな状態なのだろう。お茶をすすり、数年前に房総半島を旅行した時のことをふと思い出す。

 それは当時の恋人との旅行だった。「夕食のアワビは活かお刺身かを選べます」とその時も宿の人に言われ、私はお刺身を、そして恋人は活の方を選んだのだった。夕食の時、相手の前に運ばれてきたアワビは小型のコンロに載っていて、貝殻の上の厚ぼったい身は本当にまだじわじわとうごめいていた。
『活アワビを焼くと、まるで踊っているような動きを見せます。食べ頃に焼けるまで、アワビの踊りをお楽しみ下さい』
 アワビの踊り焼きの手順、と書かれた紙にはそんな文言が載っていた。
「いや、楽しめないってそんなの。どういう神経してるのよ」
 鼻白む私とは対照的に、恋人は嬉々としてコンロに着火し、「すごい、アワビの身が波打ってる。本当に踊ってるみたいだ」「わあ、かなり火が通ってきたのにまだ動くよ」などと、目を背ける私にはしゃいだ様子で実況中継してくれた。あの旅行で思いがけず残虐な本性を目の当たりにしたから、というわけでもなかったけれど、恋人とはその後、自然消滅に近い形で別れた。あの時一口もらった踊り焼きアワビの香りやねっとりした身の触感の方が、私の中では恋人本体の印象よりも生々しく記憶されている。

 黄金色の出汁を張った銅製の鍋、太打ちうどんと様々な具材を盛り付けた重箱、そして重箱を縮小したような蓋付きの小箱が間もなくテーブルに運ばれてきた。活アワビの一件を思い出したばかりだったので、小箱の蓋を取る手つきも恐る恐るになる。果たしてそこにはピンピンに活きている飴色の立派な車海老が一尾、うつ伏せで佇んでいた。長い触角が辺りを探るようにゆらめくのを見て一旦蓋を閉め、私は鍋一式を運んでくれた先程の女性に訊ねた。
「こ、これは、どうすれば」
「お箸でしっかり挟んで、ぐっと鍋の底まで入れて、おとなしくなるまで煮てくださいね。普通に入れても、跳ねて鍋から飛び出てしまうので」
 言いつつ卓上に設えられたコンロに鍋を掛けると、女性は別の卓に呼ばれて行ってしまった。
 とりあえず私は、温まった出汁に具材を入れてゆくことにした。鶏もも肉とはまぐり、野菜類、うどんまですっかり煮えてしまってから菜箸を握り直し、覚悟を決めて再度、小箱の蓋を取る。黒々とした丸い目と目が合い、一瞬怯んだけれど、箸でがっしりと挟み込んでそのまま鍋の中に沈めた。ビクビクと身をよじる感触が間を置かず伝わってきて、息を詰める。箸が指に食い込んでちょっと痛いな、と感じたところで、もう鍋の中の動きが止まっていることに気付いた。
 海老は、朱色に染まり美しかった。黒々とした目だけが先程と変わらず、思わず目を逸らす。普段の私であれば、鍋を食べる時にはまず野菜からであることが多い。少なくとも真っ先に海老を食べるなどというもったいないことはしないのだけれど、今日は殻も剥かずに頭からかじり付く。中の身は柔らかいのにプリっと弾力があり、噛みしめるといつも食べるものよりも味が濃い気がした。今、美味しいものを食べた。それは普段の食事で感じる平和な丸っこい感覚とは異なり、鋭く鮮やかだった。菜箸とお玉を使って他の具材も出汁ごとよそい、なおも私は食べ続けた。
 この出汁には、先程の海老のエキスが溶け込んでいるだろう。鶏としての原形を留めていない鶏もも肉のエキスも、貝殻が開く頃には命があった時の生々しさを失っているはまぐりのエキスもだ。野菜もうどんも、全ての具材が美味しかった。咀嚼して飲み込んでゆくうちに胃の辺りがじんわりと温まってくる。体は豊かに満たされて喜んでいるのに、食べている自分は妙に獰猛な顔をしている気がした。
 顔を上げて店内を見回せば、どのテーブルにも銅製の鍋が置かれ、湯気の向こうに見えるお客たちの目は皆ぎらぎらと輝いて見えた。
 その後、私は電車で自宅の最寄り駅まで帰った。駅前商店街を歩き、精肉店の前を通りすがる。看板にはナイフとフォークを手に満面の笑みを浮かべる豚のイラストが描かれており、いつもは「なんだか悪趣味だなあ」とうつむいて通り過ぎていた。けれど今日は立ち止まり、まじまじとその看板を見上げた。
(了)