第19回「小説でもどうぞ」選外佳作 覚悟の一杯 緑絵
第19回結果発表
課 題
もの食う話
※応募数276編
選外佳作
覚悟の一杯 緑絵
覚悟の一杯 緑絵
「会社方針でね。ずっと一緒にやってきた緒方社長には申しわけないけど」
起業以来の取引先からそう言われ、足取りも不確かなまま帰路に就いた。取引先を出て以降の記憶がない。
小さな部品工場ではあるが、二百人の従業員が働いていた。年代も様々で、製造部の若手の中には子どもが生まれたばかりの者もいた。彼らにどう顔向けしたらいいのか、見当もつかなかない。再建させてくれるのであれば、神にでも悪魔にでも祈りたい気分だった。
途方に暮れ、あてもなく歩いていると、ふと自分が見慣れぬ景色の中にいることに気がついた。奥まった裏路地のようで、辺りにはうっすらと霧が立ち込めている。どちらに行ったものかと途方に暮れていると、どこからかうまそうな匂いがしてきた。脂と香辛料の匂いがした。『おそらく中華だ』そう思った途端、腹がぐうと大きく鳴った。最近、まともな食事をとっておらず、今日も朝から何も食べていなかった。
私は恐る恐る霧の中を進み、ぼんやりと明かりを放つ一軒の古びた中華屋に行きついた。古びた暖簾にはところどころに黒ずみがこびりついていて、どこにでもあるような中華屋に見えた。周囲の見知らぬ景色を不安に思いながらも、空腹に負けて暖簾をくぐった。
店内に他に客はいなかった。店主も見当たらない。壁には様々な料理名が貼られていて、
ぼんやりと店内を見つめていると、どことなく既視感に襲われた。私は確かにその光景をどこかで見たことがあった。確信はあったが、それがいつどこでのことだったか、全く思い出せなかった。
「いらっしゃいませ」
後ろから不意に声をかけられ、思わずびくりとする。
振り返ると、そこには白シャツに黒いスラックス、革靴姿の男が微笑んで立っていた。高級フレンチのウェイターのような男の佇まいは、その店の雰囲気にはそぐわなかった。訝しむ私を意に介さず、男は、
「いらっしゃるのをお待ちしておりました」
と慇懃に続けた。私が何も言えずにいると、
「早速ですが、料理をお持ちしてもよろしいでしょうか?」
男は微笑みを崩さずそう言った。
「お持ちするも何も、私はまだ料理を頼んでいないのだが」
困惑しつつ私が答えると、
「当店では、お客様が今、本当にお求めになる料理を提供させていただくことにしております」と言った。
「それでは、しばらくお待ちください」と男は言ってお辞儀し、私の返事も待たずに厨房へと消えていった。
おかしな店だと思ったが、細かいことをあれこれと考えるには私は疲れすぎていたし、空腹がピークで問い質す元気もなかった。
しばらく漠然と店内を見つめていた。頭の中では、会社のこれからのことがぐるぐると渦巻いていたが、特にいい案は浮かびそうになかった。そうしているうちに、男が厨房から出てきて目の前に器を置いた。中身はシンプルな醤油ラーメンだった。
濃厚な脂の匂いが立ち上り、口内に唾液が溢れた。一口食べると、麺は細麺で喉越しがよく、スープを飲むと甘みを含んだ脂と塩味、そしてほのかな魚介の香りが拡がった。一口、また一口と食べるたびに全身がびりびりと痺れ、次第に若返っていくような感じさえした。最後の一滴を飲みほした時、金槌で叩かれたような衝撃とともに唐突に記憶が蘇った。
記憶の中の私はまだ若く、起業したばかりで資金繰りに奔走していた。融資してくれる銀行を手当たり次第に探しては断られる日々が続いていた。自前で準備していた頭金も底をつき、いよいよあとがないといった最後の日に、ラーメンをかきこみながら最後の交渉の作戦を練った。これを逃せばもうあとはないといったぎりぎりの緊張感に反して、私の心は熱く燃え、挑戦心に満ちていた。結果がどうであれ死力を尽くすと誓った。
最終的に融資を得ることができたが、あの日、死力を尽くすと誓ったのがこの店だったことを、今では鮮明に思い出すことができた。
ふと気づくと、男が隣に立っていた。
「ありがとう。なんだかとても大切な気持ちを思いだせた気がするよ」
私がそう言うと、男は首を振った。たいしたことは何もしていない、とでも言っているようだった。
男が指をパチンと鳴らし、あたりに再び霧が立ち込め始めた。私は驚いて声を上げたが、霧に吸い込まれるように消えていった。
気がつくと私は会社の近くのバス停に一人で座っていた。現実だったのか判断に迷ったが、少なくとも空腹と、ついでに漠然とした不安感も消えていた。不安ばかり抱えていた少し前の自分が、まるで別人のように思えた。私はしばらく空を見つめたあと、ポンと腹を叩いて再び歩き始めた。
(了)