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第19回「小説でもどうぞ」選外佳作 もったいないでしょ? 大汐いつき

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第19回結果発表
課 題

もの食う話

※応募数276編
選外佳作 
もったいないでしょ? 大汐いつき

 冷蔵庫を開けると、あるはずのものがなかった。
「Kちゃん」と私は息子を呼ぶ。「こっちに来なさい」
「うん」と言う息子は、しかし携帯ゲームに夢中で動かない。
 私は息子の前に立ち、腕組みをする。
 息子は、それでも手元の画面から目を離さない。
 今年で、小学五年生になる。ほんの少し前までは、私にべったりだった。どこにだって私のあとをついてきた。買い物にも。美容院にも。友人とのランチにも。いつも不安げに私の服の裾をつまみながら。まだ早すぎるとは思いつつ誕生日に買いあえたタブレット端末が、良かれ悪しかれ、親ばなれを促したようだ。最近は反抗的にもなってきた。
「また勝手に食べたでしょ」
 息子はようやく手をとめて、おそるおそる私を見あげる。
「何を?」
「パパの心臓」と私は答える。「今日の晩ごはんに取っておいたの」
「食べてないよ」息子の声はこわばっている。
「うちには、三人しかいないの」私は指折り数える。「ママは食べてない。パパが自分で食べるはずがない。あとはKちゃんしかいないでしょ」
 夫の心臓は息子の大好物だ。生のままでも、味つけがなくても、喜んで食べる。冷蔵庫で見つけた瑞々しい肉塊を我慢できず、その場でかぶりついてしまったであろうことは想像にかたくない。息子には、つまみ食いの前科がある。一度や二度ではなく、何度も。
 私は趣味で夫を養殖している。食用だ。夫が食べごろになるたび、からだの一部を切り離したり、内臓を取り出したりして、料理の材料にする。ここから先はもう処理がむずかしいというところまできたら、残りは処分して、また新しい夫を育てはじめる。家庭内生産。家庭内消費。いまの夫が何代目かは覚えていない。結婚直後からのことなので、数えきれないぐらい、夫の地産地消をくり返している。
 私と息子が沈黙するなか、玄関のほうで物音がする。夫が会社から帰ってきたのだ。
「おかえりなさい」と私が言い、息子も続いて小声で言う。
「ただいま」と返す夫の表情は虚ろだ。心臓を抜かれているので、この夫には心がない。感情がない。左目と左手と両耳も、すでになくなっている。先週、私と息子が食べてしまったからだ。職場ではさぞ苦労しているはずだが、親切な同僚たちがいろいろと夫を支えてくれているのだと思う。彼らの温かさには感謝がたえない。
 私は包丁を持って夫に近づく。夕食の準備をしなければならないのに、材料が足りない。モモ肉。ムネ肉。胃袋。肝臓。どこを使って、どんなレシピを組み立てようか。
 頭を悩ませていると、私と夫の間に息子が割り込んでくる。そして夫の足に顔をうずめる。そこは偶然にも、私が今晩の料理に使おうかと考えていた部位だ。
「パパはおいしいけど」息子は泣いている。「すごくおいしいけど、でも、パパがだんだん欠けていって、こんなふうにぼろぼろになっちゃうのは、もう嫌だよ。パパが一緒に公園に来ると、いつも恥ずかしいんだ。みんなが集まってきて、パパをじろじろ見てきて、いろいろ聞いてきて。うちのパパはおいしいんだぞ、って言っても、わかってもらえない。みんなに笑われちゃうんだ。馬鹿にされちゃうんだ」
 私は言葉を失う。何故、これまで思い至らなかったのだろう。食用ではない父親が、息子には必要だったのだ。息子がゲームに入れ込みはじめたのも、まともな父親の不在による寂しさを埋めるためだったのだ。夫の養殖と調理ばかりに気をとられ、大切なことを私は見失っていた。家族を喜ばせようとしながら、愚かにも家族を壊していたのだ。
「ごめんね、Kちゃん」私は息子の頭をなでる。
「ぼくもごめんね、ママ」と息子は申しわけなさそうに白状する。「心臓だけは、どうしてもひとりで食べたかったんだ。このパパで最後にしたかったから。大好物だから。パパとママと同じくらい、大好きだから」
 私たち家族三人は抱き合う。失われたものを取り戻すために。
「でも」と私は微笑む。「このパパは、ちゃんと最後まで食べてあげないとね」
「うん」と息子も微笑む。もう泣いてはいない。
 夫は、口元からよだれを垂らし、天井のあたりをぼんやり眺めている。
(了)