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時代考証のミス その2 ~刑罰の描写~

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作文・エッセイ
作家デビュー

「死罪」と「死刑」は別物

  あるアマチュアが書いた時代小説を読んところ、家族を捨てた父親の話になって、息子が「父親が見つかったら殺す」と言い張るのを「ダメだよ。いくら酷い親でも、殺したら死罪になるよ」と説得される場面が出てきて驚いた。

  父親殺しは重罪である。「死罪」などという軽い罪ではない。市中引き回しの上、磔獄門である。

  長い距離を延々と晒し者になって引き回された上、2日間、首から上だけ出して土に埋められる。その後、磔台に括られ、両側から槍で突かれて絶命、その後は首を斬られて獄門台に曝される。

  思うに、死罪を「死刑」と勘違いしているのだろう。

「死罪」は、牢内で斬首され、家財が没収となる。この斬首は新刀の斬れ味を試すために行なわれる。

  ここで活躍したのが「首斬り浅右衛門」こと山田浅右衛門である。

  山田浅右衛門家による斬首は明治時代の初めまで行なわれた。最後の斬首は明治14年で、翌年正月をもって新刑法が施行され、以降は絞首刑となった。

  遠島で済んだら、軽いほうである。

  江戸時代末期になると、経済的にも豊かになったせいか、死罪に処せられる罪人が減ってきて、上手に首を斬ることができる役人が減少した。

  それで関東地方の大名家で死罪の判決が出ると、山田浅右衛門家に「出張斬首」の依頼が入るようになったり首斬り役人を養成する依頼が入るようになった。

  彦根の井伊家が、屋敷が近所なこともあって山田浅右衛門家に養成を依頼していた事例もある。↓が井伊家の上屋敷と山田浅右衛門家の位置関係。山田浅右衛門家は平川天神の、すぐ傍である。

  

  

  ある地方の大名家からの依頼に応えて、山田浅右衛門が弟子を派遣したところ、到着までに当該死刑囚が脱獄して行方を眩まし、結局、首を斬ることができないまま、江戸まで戻ってきた、などという笑えないエピソードまで起きた。

身分による刑罰の重さの違い

  さて、江戸時代に士農工商は身分制度ではなく、職分に過ぎなかった(これは以前にも触れた)が、こと死刑に関しては武士と、それ以外で違いがあった。

  これは、武士が現代における国家公務員もしくは地方公務員に該当するからだろう。

  情状酌量の余地があれば切腹で、情状酌量の余地がなければ斬首である。

  寛永14年(一六三七)の10月から翌年の2月まで起きた「島原の乱」は、島原地方を領していた10万石の大名・松倉勝家が、乱を引き起こした酷政の責任を問われて逮捕、江戸まで護送されて取り調べの後、斬首に処せられた。

  関ヶ原合戦などで斬首された大名はいるが、江戸時代になって以降の大名の斬首は、この松倉勝家が唯一の例である。

  領地は没収、長男の重利も各地の大名に身柄を預けられた末に自死に追い込まれている。

  同じく責任を問われた肥前唐津の寺沢堅高は、領地にいなかったので、情状酌量されて領地没収で済んだが、自殺に追い込まれている。

  別のアマチュアの書いた時代小説だが、「土下座して畳に額を擦りつけた」だとか「土下座して床に額を打ち付けた」などという文章も見た。

  これも、大きな思い違い。「土下座」とは、文字通り「土(地面)に下りて座る」ことである。畳や板の間で土下座することは不可能なのである。

プロフィール

若桜木虔(わかさき・けん) 昭和22年静岡県生まれ。NHK文化センターで小説講座の講師を務める。若桜木虔名義で約300冊、霧島那智名義で約200冊の著書がある。『修善寺・紅葉の誘拐ライン』が文藝春秋2004年傑作ミステリー第9位にランクイン。

 

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