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第21回「小説でもどうぞ」佳作 その鼻を鳴らすな 河村理恵

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第21回結果発表
課 題

学校

※応募数250編
その鼻を鳴らすな 
河村理恵

 渡り廊下を歩いて縁の欠けたコンクリの階段を三段上がると築六十四年のA棟だ。
 入ってすぐ左手に購買部がある。手早く惣菜パンを並べている丸顔のおばちゃんは銀ブチ眼鏡に緑のエプロン。昔通りだ。いや、俺が高校生の時と同一人物のはずがないが、ずっとそこにいたような気配がする。
 やきそばパン、あるかな。
 俺の心を読んだかのように、おばちゃんはやきそばパンを箱から取りだした。鮮やかな紅しょうがレッドが目を射る。
 買っちゃおうかな。
 だめだ。やきそばパンは腹をすかせた高校生のためにある。新任の校長が横取りしてはならない。
 目礼して通りすぎると、おばちゃんは一瞬手を止め、眼鏡の奥の細い目を見開いた。それから鼻からフン、と強く息を吐き……えっ、いま鼻で笑った? 俺笑われた? なんで? ハゲだから?
 校長室のある二階への階段を上がる。
(まさか。気のせいだ。やっぱ変に力入りすぎてるかも)
 母校の県立トップ校に校長として赴任すると決まった時は本当に嬉しかった。教師生活を最高の形で締めくくれる。
 久しぶりに来てみると、校舎は古いが体育館は新しくなっていた。昔はエアコンがなかったから、バドミントン部の夏は地獄だった。朦朧としながら毎日練習。よくやったよ。
 十七歳の俺はバドミントン部の顧問になりたかった。それで比較的ましな成績の理科の教員免許を取ろうと決めた。単純明快。三時間目に弁当を平らげ、昼は購買にダッシュ、俺のやきそばパンは渡さねえ! そんな日々はすでに遠い。窓の葉桜を眺め、減塩弁当を食す。
 いくつか用をすませ階段を降りると、片付けをしていた購買部のおばちゃんがくるりとこちらを向いた。
「やきそばパンは売り切れたよ、高木君」
 そしてフン、と鼻を鳴らす。笑った? 高木君? あ、この鼻の鳴らし方は。薄い唇は。
「仲本? 仲本ゆかり?」
 バックハンドのサーブが見事な仲本か。
「パンとやきそばって許し難い組み合わせだよ。炭水化物の塊じゃん。食文化の破壊」
「るせーな。理解できないんだろ、この味が」
 やきそばパンにかぶりつく俺を「フン」と鼻を鳴らしてわらっていた、同じバドミントン部の仲本。部活をやりながら成績はトップ、現役で東大文Ⅰに入った仲本。確か卒業後は外務省に入省したはずでは。
「高木君なんでここにいるの?」
「今年からここの校長」
「わー、母校の校長とか、うるうるするね」
 そっちはなんでここに、と俺は聞かなかった。今度またな、と歩き出す俺の背中に、
「高木君。うまいことやったね」
 ふり向くと、仲本が眼鏡をかけなおしながら、フンと笑って頷いた。
 うまいことやったね。なんだそれ。大した意味はないんだろうと自分に言い聞かせるが、心の底にひっついて離れない。
 そのうち、俺の耳には仲本の「フン」が聞こえるようになってきた。終業式で挨拶しようと口を開いた時。進路説明会の打ち合わせ中。耳元で透明な仲本がフン、と鼻を鳴らすと俺の頭は一瞬、空白になる。
 違う。俺はうまいことやったりしていない。あちらが納得して、自発的に取り下げてくれたのだ。俺の誠意が通じたのだ。
 後遺症は本当に気の毒だが、部活の熱中症だけが原因だと言い切れるのか。顧問にも家族がいるし、生徒たちも動揺する。大ごとになれば本人や家族も結局傷つく。俺は教頭として最善をつくした。「もみ消し」なんて汚い言葉を使うな。それに仲本、おまえがこのことを知っているわけないだろう。
「フン」はたびたび俺を襲った。購買部に近寄らないようにしても、あいつがそこにいると思うだけで息苦しい。まずい。これで業務に差し障りが出ては生徒に申し訳ない――。
 二学期。A棟にコンビニ自販機が導入され、購買部は長い歴史に幕を閉じることになった。俺が勝手に決めたわけじゃない。利便性のため前から検討されていたことだ。
 最終日の購買部は長蛇の列で、仲本にプレゼントを渡す生徒もいた。
「最後くらい手伝うよ」
 俺は余裕を見せて荷物をバンに運ぶ。
「ありがと。高木君、ほんと、うまいことやったね。ハゲとヒゲの組み合わせでイケオジ路線かー。昔からおしゃれだったもんね」
 そう言って、仲本が鼻を鳴らして笑う。
 俺はやきそばパンが好きだったのか。仲本の「フン」が聞きたくて、やきそばパンを買っていたのか。どっちなんだろう。
 そう一瞬考えたことを、俺はすぐ忘れた。
(了)