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第22回「小説でもどうぞ」佳作 だしにされて 藍川リマ

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第22回結果発表
課 題

※応募数242編
だしにされて 
藍川リマ

 私は焼き殺された。真夜中に不意打ちで、宿敵が屋敷に火を放ったのだ。無念の死。何も成し遂げられないまま、私は人々の記憶や歴史から消え去るはずだった、のだが。
 私が焼き殺され、宿敵が権力を掌握してしばらく、集落では不作が続き、疫病が蔓延した。人々は恐れ惑い、「ナンタラ氏のたたりじゃ」と口々に語り、その原因が私だと言うではないか。
 すると宿敵のカンタラ氏め。私の魂を慰めるとの名目で、立派な廟を建てた。その費用の出所はカンタラ氏が没収した私の財産だ。人々は「ナンタラ様、どうぞお気をお静めくださいませ」と、せっせと奉納物を携え参る。静めようも何も、死んでいるのでどうしようもないが、もし私に力があり望みどおりになるのなら、カンタラ氏を私と同じ目に――火だるまに処してもらいたいものだが。
 そうやって人々が廟に奉納することが続いたあと、農作物は実り、疫病は収まった。人々は「ナンタラ様のご利益じゃ」と喜び、ますます奉納物を携え来るようになった。私にそんな力があるはずがない。豊作は天候に恵まれたこと、そして人々に免疫がついたことで蔓延が収まったのだろう。呪っても恵んでもない私に感謝をいくら捧げても、死んだ私には何も得るものはなく、その奉納物でますます栄えるカンタラ氏。宿敵に負けた運命とは言え、死んだ私が感謝され、惨めに生きている私の一族に目をかける者がいないというのは、人の道理とは何なのだろう。
 それから数十年経ち、ナンタラ廟――焼失した私の屋敷よりも立派な廟への参拝者は、建立当時の苦難と恩恵の記憶が薄れていくにつれて減少した。不快なことに、カンタラ氏の子孫がナンタラ廟の主として居着いている。とっくの昔から存在しない私への奉納物が、宿敵の子孫の食い扶持になり続けているとは。しかし、参拝者の減少で廟が存続できなくなることで、この理不尽な伝統が廃れるだろう……その日を私は待ち望んでいたのだが、カンタラ氏の子孫は思いついた。そうだ、祭りを催して参拝者を増やそう。さて、どんな祭りにしよう……そうだ、ナンタラ氏は火事で死んだのだから、祭りの象徴は火だ! 山車を作り、それを曳いて集落を練り歩き、祭りの終盤には山車を焼いてナンタラ氏の鎮魂とする、という仕立てにしよう、と。
 火! 私を焼き殺した火で私を慰めるだと! 何の悪い冗談だ。誰か史実を知る者が異論を唱えて却下してくれ。しかし祭りの話を持ち掛けられた人々は、俄然喜んだ。それどころか「ナンタラ様を焼いた火は、竜の形をして空高く天に昇ったそうだ」と新たな話が創造された。かくして人々は山車をせっせと作り、山車をせっせと曳き回り、祭りの最後には山車を焼き、せっせと祈った。「竜となって天に昇られたナンタラ様、どうぞ今年もご利益をお恵みください」……私は火に焼かれて地面をのたうち回ったというのに。そんな死人の心を知らず、祭りを機に、廟には多くの人々が再び集うようになった。
 さらに時は進み、集落の人々は都会に流れ、住民は減少。参拝客も減り、ナンタラ廟の存続が再び難しくなった。これを機に、宿敵カンタラ氏の子孫――廟に居座り続ける者らが、廟と共に消滅すればよかったのだが、カンタラ氏の子孫は考えた。今の時代、火だけでは印象が弱い。都会の人が参拝しに行きたくなるような特徴を出せないものだろうか。火、火、火……火は台所で使う。そうだ! 料理のご利益があるということにしよう。早速カンタラ氏の子孫は動いた。特に女性や美食家を対象とした媒体に働きかけたのだ。目新しさを貪欲に求める彼らは即座に飛びつき特集を組んだ。すると都会から人々が続々と参拝しにやって来た。「店が繁盛しますように」「ソムリエ試験に合格しますように」「料理が上達して結婚できますように」「食中毒が発生して店を休業したので助けてください」「ミシュランで星を取りました、ナンタラ様ありがとう」うんぬんかんぬん。料理なんぞ作ったことのない私に! フレンチやらイタリアンやら異国があるという概念すらなかった私に! そして年に一度の火祭りには、山車を焼く火を使ったバーベキューなる串焼きを食べることでご利益があるとされるようになり、ますます参拝者や祭りの動員数は増えた。
 私という死人をダシに、よくもここまでやるのかと呆れるばかりだ。当初、私は思った。死んで何もできない私を勝手に良し悪しの原因に仕立て上げるのは知識のなさゆえで、時代が進めば人の英知も進み、いわれのない象徴を背負わされた私は開放されるのではないかと。しかしどうだ、この脈々と続く不可解なことよ。もうこれ以上ダシにされるのは沢山だ。どうか私を本当に殺してくれ。
(了)