第23回「小説でもどうぞ」佳作 ろくでもない趣味 若葉廉
第23回結果発表
課 題
趣味
※応募数267編
ろくでもない趣味
若葉廉
若葉廉
「時間ができたんだから、何か好きなことを始めてみたらどう」
妻の淑子にそう勧められたのは、勇作が定年退職して一週間がほど経った頃だった。
最近はじっくりと話をすることもないが、案外、淑子は勇作のことを気にかけてくれていたのかもしれない。勇作は胸のあたりが暖かくなった気がして、思わず頬を緩めた。
「ちょうど僕も、長年の夢だったギターを習ってみようと思っていたところだったんだ」
「それは難しいかも。このマンションは上や両隣の家の物音がよく聞こえるじゃない」
あっさり反対され、乗り気だった勇作はがっかりしたが、淑子が言うのはもっともだった。
「確かに。じゃあ、高校までやっていたバドミントンはどうかな。健康にもいいと思うんだ」
淑子は申し訳なさそうに首を二度横に振った。
「うーん。ハードなスポーツだから、逆に体を傷めたりしないかな」
年齢を考えれば妥当な懸念に納得した勇作は、淑子が賛同しそうな別案を持ちかけた。
「買って読んでない本がかなりあるから、読書を本格的な趣味にしてみようかな。本を減らせと君に言われているし、読んだ後に売れる本があれば、家も広くなって一石二鳥だろ」
「それはその通り。ただ、読書の時間が増えるだけだと、逆にますます運動不足になるよ」
的確な意見を即座に返してくる淑子は、すでに熟考しているに違いないと勇作は思った。同時に、彼女が何を聞きたいか思い当たり、なぜ早く気付かなかったのか後悔した。
「一緒に旅行をするか。行き先について事前に調べるのも楽しいと思うよ」
勇作は淑子が喜ぶ様子を思い描いていたのだが、なんと淑子はため息をついた。
「私たちが行きたい場所は絶対違うと思う。それに、あなたも知っている通り、これからの生活を考えると、旅行を趣味にするような余裕はないと思う」
自分の稼ぎが悪いと暗に言われたようで、気分を害した勇作は、投げやりになってきた。
「わかったわかった。じゃあ料理はどう。家事の分担にもなるから君の負担も減るだろう?」
「そうなるまでには、私がかなりの時間教えなきゃいけないことを考えて言ってる?」
勇作は落胆し、別案を考える気が失せてしまった。案を出しては却下されるの繰り返しにも辟易としてきたので、逆に淑子に訊いてみることにした。
「そういう君は、何か始める予定はあるの?」
「実は、散歩と小説の執筆を始めたところなの。散歩は健康にいいし、頭の働きがよくなると発想がクリエイティブになるので、面白い小説が書けそうな気がする」
なんてことはない、淑子は勇作と同じ趣味を楽しむつもりなどなかったのだ。であれば、自分が本当に好きなことを趣味にすればいいだけと思い、気が楽になった。
「じゃあ、僕は歌舞伎を本格的に勉強してみるよ。作品の台本を読み込んだり、演技を体験したりをする研究会もあるらしい。僕が外出すれば、君も家で静かに執筆できるよね」
淑子は大きく頷き、いいんじゃない、と言うと満足そうに微笑んだ。
一年後、勇作は約束の時間より早めに自宅に戻ってきた。淑子が日課の散歩でいない間に、私物を捨てるものと引き取るものにを仕分けし、離婚届に判を押せばすぐに帰るためだった。勇作はまだ持っていた鍵で家に入り、思い出の詰まった居間を見回しながら、この一年を振り返った。歌舞伎の研究会にすぐに馴染み、和楽器の演奏や作品ゆかりの地への旅など様々な活動を楽しんだが、ほどなく同い年の女性会員と男女の関係になった。だが、すぐに淑子の知るところとなり、勇作が多額の慰謝料を支払う形での協議離婚が先週成立したのだった。かえすがえすも、高くついた、ろくでもない趣味だったとため息をついた時、部屋の電話が鳴った。一年も不在だった自分あてのはずはないと思った時には、長年の習慣から反射的に受話器を取っていた。案の定、淑子の携帯に繋がらないからこっちに掛けた、と言う若い男の編集者で、淑子が世話になっている礼を言うと、馴れ馴れしく話かけてきた。
「ご主人って、奥様が初めて弊誌に応募した小説の主人公のモデルですよね。退職後に生きる目的を見つけられない夫と、夫が家にいるのを鬱陶しく思う妻が、夫を外出させようと趣味を持つことを勧めるストーリーには同年代の男女双方から大きな反響があったんですよ。どこまでが事実か興味があるんですけど、奥様は教えてくれないんです。どうなんですか?」
勇作はすっかり鼻白み、早々に電話を切ると、静けさの戻った居間をもう一度見回した。淑子がここでそんな小説を書いていたと考えると身体の力が抜けるようだった。淑子と似た者同士だと感じたことはなかったが、趣味がろくでもないことは似ているようだった。
(了)