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第25回「小説でもどうぞ」選外佳作 黄昏幽霊 柚みいこ

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第25回結果発表
課 題

幽霊

※応募数304編
選外佳作 
黄昏幽霊 柚みいこ

 ガラガラガラ。
 そんな音はしない。だが、そう表現したい気持ちだ。
 今日も台所で夕飯の支度をしていると、玄関の引き戸が開いた。
「おかりなさい」
 わたしは明るく声を掛ける。
 もちろん、返事などないが、後ろを通る気配はする。たったそれだけのことで、ああ、今日も夫はちゃんと帰ってきたなと思うのだ。
 ちゃぶ台には二人分の食事を用意する。夫の顔は見えないが、向こうからは見えているに違いない。彼の視線は、しっかりと感じることができるからだ。
 思い返せば、あまりいい夫ではなかった。
 親戚に勧められるまま見合いをし、流されるように結婚してしまったが、夫が優しかったのは最初の一か月だけだった。
 少しでも気に入らないことがあると、烈火のごとく怒鳴り散らす人だったのだ。
 直接暴力を振るわれることはなかったが、皿でもなんでも食卓にあるものを投げ付けられた。お陰で我が家の壁には、今でもそのときの傷があちこちに残っている。
 少しでも口答えしようものなら、二倍、三倍にもなって返ってきた。
「誰のお陰で飯を食えると思っているんだ」
 これが彼の決め台詞だった。
 女がいたこともあった。ある日、通帳を開いたら大金が引き出されていて、しつこく問い詰めたら観念したのか嫌々白状したのだ。
「俺の金で何しようと俺の勝手だろう」
 そう開き直られた。
 離婚はしなかった。できなかったと言うべきかもしれない。郷里の実家に戻ろうにもそこには兄夫婦がいたし、都会で一人暮らしをしようにも、後ろ盾のない独り身の女にアパートの部屋を貸してくれる大家もいなかった。それくらい女には信用がない時代だった。
 愛情はなかったが子供はできた。女の子だ。子供の世話などしてくれる人ではなかったので、ひとりで子育てをした。
 幸い夫は娘には優しかった。普段、仕事ばかりで家庭など顧みない癖に、ほんの数日父親面するだけで子供の心をがっしりと掴んでいた。全く、ずるい人でもあった。
 そんな夫が変わったのは、定年を間近に控えた頃だった。一生、妻をないがしろにする人かと思っていたら、毎年わたしの誕生日に一輪の花とケーキを買ってくれるようになったのだ。
 彼の心境にどんな変化があったのか、伺い知ることはできないが、わたしは素直にそれを喜ぶことにした。
 退職後、夫は近所に小さな畑を借り、ナスやトマトなど野菜を育て始めるようになった。小さな実がなるたびにわたしを呼び、取り頃になれば二人で収穫をし、食卓に上がったそれを二人で美味しく頂いた。
 幸せだった。娘はもうとうに嫁いでしまったが、夫と初めて夫婦らしい生活が過ごせるようになった。
 夕方、ちゃぶ台に箸や茶碗を並べていると、ガラガラっと玄関の戸が開き、夫が畑仕事から帰ってくる。
「ただいま」
「おかりなさい」
 黄昏たそがれ時の当たり前の風景。
 今はもう聞くことはできないが、わたしの耳の奥底にはっきりと彼の声が残っている。

「お母さん、いつもこんな感じ?」
「ああ、そうだな」
 力なく父親が言う。二人の前には母親がいて、一人で何か呟きながら、ちゃぶ台で食事をしているのだ。
「母さんには苦労を掛けたから、老後は幸せにしてやろうと思っていたのにな。まさか認知症になるなんて」
 口惜しそうに父親が独りごちた。
「老々介護なんて大変じゃない。あたしもそうそうこっちに戻ってこれないし、施設も考えたら?」
「うーん……」
 遠方に住む娘の心配を他所よそに、老父は歯切れ悪く口籠る。
 二人分の食事を見て娘が推測した。
「これ、もう一つはお父さんの分じゃない?」
「どうかなあ。食べようとすると怒られるんだよ」
 見えない相手に微笑む母親に、父も娘もやるせなく溜め息をついた。
(了)