描写がかけなければ小説にはならない1
いい小説の要件というと、着想、構成、ストーリーといったことが上がると思います。でも、描写でない文章、たとえば、あらすじのような文章だったら、どれだけ設定が斬新で、どれだけストーリーが巧みだったとしても、いい小説とは言えませんし、それ以前に、それでは小説になりません。ということで、個々では描写についてまとめます。
描写とは
描写は筆遣いや配色
描写とは何かというと、辞書では「物の形や状態、心に感じたことなどを言葉によって写しあらわすこと」とか、「いきいきと写す」「ありありと書く」のように書かれていると思います。
確かにそのとおりですが、これではなんだか漠然としていますね。
描写とは、絵画における筆づかいや配色に相当します。
(島田雅彦『小説作法ABC』)
絵であれば素描と言えばいいでしょうか、輪郭を描いたりしたものが説明で、色合いだとか筆づかいだとかが描写になります。
では、なぜ描写をするのでしょう。
僕の生家は、山の手の邸宅街の中でもとりわけ目をひいた。
たとえば隣り合わせの原っぱで野球をする子供らは、貴重なボールが築地塀を越えて邸に飛びこんでしまったら最後、頼みこむことも忍び入ることもできなかった。そこで近所に友人のいなかった僕は、歓声が聴こえ始めるとグローブをはめて庭に出、ボールが飛びこんでくるのをいつまでも待ったものだった。本当は一緒に野球をやりたかったのだけれど、それは堅く戒められていたので、姿の見えぬもう一人の外野手になってファウル・ボールを投げ返すほかはなかったのだ。(浅田次郎「悪魔」)
描写というより回想のようですが、ただ、全体を通じて匂ってくるものはあります。では、これを要約するようなかたちで、「子どもの頃、僕は大邸宅に住んでいた。孤独な少年だった」とだけ書いたらどうでしょうか。
話の主旨は伝わりますが、いわく言葉にしがたい情感なり雰囲気なりはすべて取りこぼされてしまいます。
それに、そんなに単純に「孤独」と言っていいのか、孤独には違いないけれど、ちょっと違う色合いもあったんじゃないか、という気もします。
つまり、説明しただけでは伝わらない、一言では言えない、だから、描写で伝えるわけです。
写生文という基本
しかし、言葉には多義性がありますから、説明しただけでは伝わりにくいもの、たとえば、感じやニュアンスを伝えようとして過剰に形容詞や比喩を重ねていくと、かえって意味が遠ざかっていったりします。では、どうするか。正岡子規はこう記しています。
或る景色又は人事を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず只ありのまゝ見たるまゝに其事物を模写するを可とす。(中略)
写生といひ写実といふは実際有ありのまゝに写すに相違なけれども固もとより多少の取捨選択を要す。取捨選択とは面白い処を取りてつまらぬ処を捨つる事にして、必ずしも大を取りて小を捨て、長を取りて短を捨つる事にあらず。( 正岡子規「叙事文」 )
言葉を飾らず、誇張を加えず、見たまま模写しろ、写生しろと言っています。
つまり、ある出来事があったとして、それを別の言葉(元の像を再現しにくい言葉、観念的な言葉)に置き換えてしまうところに原因があるのだから、見たまま、感じたままを書いて、出来事をそのまま〝保存〞しろということです。
とは言え、見聞きしたこと、感じたことをすべて書いていたら、話がなかなか前に進みませんね。
そこで取捨選択です。なぜこの描写を書くのか、なぜ必要なのか、あとの展開とどう関わるのか、そうしたことを考えたうえで捨てろと、そういうわけです。
描写の方法
五感を働かせる
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。
私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。(川端康成『伊豆の踊子』)
目を使って描写していますから情景が視覚的ですし、「私を追って来た」のあたりには作者の筆使いを感じますね。
『仮面ライダー』のイントロが流れると、若い連中は一斉に笑った。ジョッキに残っていたビールを飲み干してソファーから立ち上がり、マイク片手にステージに向かう吉岡の背中に、「主任、がんばってえ!」と女子社員の声が飛ぶ。(中略)
とっくに歌は始まっているのに、吉岡は「とおーっ!」と一声吠えて、バンザイのポーズでジャンプした。高さ、約五センチ。体の動きにワンテンポ遅れてふわりと浮き上がったネクタイが、脂ぎった鼻の頭に当たった。(重松清「ゲンコツ」)
会社での飲み会のひとこまです。吉岡という主任が、ウケを狙って無理して頑張っている場面です。状況や雰囲気がよく伝わってきます。
「吉岡の背中に」も効いています。描写というか説明ですが、この一言で場の空間、位置関係が認識できます。また、最後の6行は、一瞬の光景が静止画になって目に浮かびますね。
豊樹がそういいかけたところで、手をつかまれ室内に引きこまれた。背中でドアが閉まる音がする。部屋のなかの暗さは目を閉じていてもわかった。勢いよく布のこすれる高い音が背中越しに鳴って、つぎの瞬間豊樹は目隠しをされていた。
肌をすべるなめらかな感触でシルクだとわかる。冷たい闇が頭に巻きついたようだった。(石田衣良「1ポンドの悲しみ」)
目を閉じている状態から目隠しをされます。視覚がないので、聴覚と触覚で描写をしています。このように描写は主として五感を使って書いていきます。
動きのある場面は文を短く
富治の侵入に気づく様子もなく、文枝は、あられもない寝姿を、まったくの無防備で晒さらしている。(中略)明かりが点いている部屋での夜這いなどしたことがなかった。だからためらいが頭をもたげたのだと考え、ロウソクを消しに動こうとした。
その時、ふいに文枝の瞼まぶたが開き、富治の顔をまともに見あげた。
体が硬直した。動くに動けず、相手の口を塞ぐこともできない。
文枝の口から悲鳴が迸ほとばしる。そう思って逃げ出そうとした。
が、予想に反して、彼女の口から悲鳴があがることはなかった。
「誰?」とひとこと言ったあとで「あっ」と小さく漏らし、「アメ流しの時の――」と呟いた。(熊谷達也『邂逅の森』)
文枝が目を開くまでは比較的ゆっくりと描写していますが、文枝に気づかれたあとはセンテンスが短くなり、改行も多くなっています。
場面に動きがないときはじっくり書いていますが、動きのあるシーンでは描写や解説は最小限にとどめています。
人物の主観で書く
人いきれとヤニ臭い煙の中で、男の片頬にはっきりと笑みが浮かんだ。相手を値踏みしたうえでの、見下しきった薄笑いだ。目は口ほどにものを言う。何か用かよ。俺に意見しようなんて度胸がいいじゃないか。半笑いの口元から心の声が聞こえた。
(真保裕一『繋がれた明日』)
一元視点の場合は特にそうですが、小説に書くことは、基本的には視点人物の心に映ったものになります。つまり、主観です(ちなみに視点人物とは、カメラの役割を担ってシーンを写している登場人物のことです)。
一人の視点で書く利点は、そのほうがカメラが固定されてシーンが安定するからですが、一人の人物の主観で書いたほうが意味を引き出しやすいということもあります。
たとえば、十人で討論会をやれば偏った結論は出ないと思いますが、聞いているほうは混乱したりします。一方、ただ一人が演説をした場合、独善的にはなるかもしれませんが、話は理解しやすいはずです。
小説の場合も同じです。一人の人物の世界だからこそ、私たちはそれが理解できるというところはあります。
※本記事は「公募ガイド2012年1月号」の記事を再掲載したものです。