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若桜木虔先生による文学賞指南。「『難攻不落』は造語! あなたの『大丈夫』は大丈夫?」

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作家デビュー

白無垢に難攻不落、時代小説なら頻出の用語に注意

  何年か前に直木賞にノミネートされた時代小説を読んで、あまりに時代考証間違いが多いのに呆れ果てた。

  物語の舞台は、織田信長が浅井朝倉や大坂本願寺との抗争に明け暮れていた頃である。

  まず驚いたのが、結婚披露宴の場面で、花嫁が白無垢でいたこと。白無垢は、死装束もしくは喪服で、これが花嫁衣装として着られるようになるのは安永年間(一七七二~)頃から。

  咄本などに見られるようになり、完全に定着するのは、何と、明治時代に入ってからなのだ。

  徳富蘆花が明治三十三年に発表した『思出の記』に次のように出てくる。

「新郎新婦相並んで、座敷の床の間に向って、志津牧師の聖書朗読を耳にしている。羽織の紋の桔梗と、羽織の紐と、襟と、足袋を除けば、僕の服装はすべて純黒。面の桜色と烏羽玉を除けば、敏君は渾身雪白(これはその母君の嫁時の白無垢を是非と云って敏君が着たそうな。ただし帯は結納に贈ったあの白茶地に白の乱菊を織り出した七糸のをしめて居た)」

  

  さて、タイトルに出した「難攻不落」は時代小説には頻出するが、これは実は明治三十七年の報知新聞の造語。日露戦争の報道に次のように出てくる。

「元来、旅順の難攻不落と称せられたるは多数の砲台互に聯絡し扶助して」

  代わりに時代小説で使うべき言葉は「金城鉄壁」となる。

  これは中国の北宋の徐積(西暦一〇二八~一一〇三)の詠んだ五言絶句『比喻城壁極堅固』に次のように出てくる。

金城不可破 鐵壁不可奪 擇交蓋已定 言志亦已合」

  「土塁」は明治十年の八月十六日に、丁丑戦(明治十八年以降に「西南戦争」と呼ばれるようになる)犬養毅(後に内閣総理大臣となり、五・一五事件で暗殺される)が、取材した『郵便報知新聞』の記事で

「其第二線を設け竹柵土壘何れも堅牢なるを以て頗る激烈の戦場とならんと思ひ」

  という文章で発表した造語で、これ以前の時代なら「土壁」を使わなければならない。

  これは金の宋九嘉の詠んだ『寿安煙霞亭』と題する詩に「粧鑾土壁紅千点、界画銀沙緑一鉤」と出てくる。

  

  さて、大丈夫。これは、そもそもが孟子の言葉で「立派な男子」の意味。『孟子』の「滕文公」に次のように出てくる。

景春曰「公孫衍、張儀豈不誠大丈夫哉? 一怒而諸侯懼、安居而天下熄」
孟子曰「是焉得為大丈夫乎? 子未學禮乎? 丈夫之冠也、父命之。女子之嫁也、母命之、往送之門、戒之曰『往之女家、必敬必戒、無違夫子!』以順為正者、妾婦之道也。居天下之廣居、立天下之正位、行天下之大道。得志與民由之、不得志獨行其道。富貴不能淫、貧賤不能移、威武不能屈。此之謂大丈夫

  日本でも同じ意味で使われ、『正法眼蔵』辺りから使われ、江戸時代の後期に入って滝沢馬琴の大傑作『珍説弓張月』などでも、まだ、この用法。

  現代人が使う「無事・安全・問題ない」といったニュアンスで使われるのは江戸時代末期の、式亭三馬の『浮世床』とか、為永春水の『春色梅児誉美』あたりまで待たなければならない。

  江戸時代の中盤まで、ましてや戦国時代に、相手の安全確認に「大丈夫」を使うのは論外。

  信長が手柄を立てた家臣の褒美に小判を与えているのにも、シラけた。小判を初めて作り、流通させたのは家康である。

  時代考証に無知な選考委員なら通すだろうが、時代考証に詳しい選考委員に掛かったら、問答無用で落とされる。

  だから、時代劇で新人賞を射止めようと考えたら、時代考証に詳しい選考委員の手に応募作が渡ることを想定して書かなければ駄目である。

  

プロフィール

若桜木虔(わかさき・けん) 昭和22年静岡県生まれ。NHK文化センターで小説講座の講師を務める。若桜木虔名義で約300冊、霧島那智名義で約200冊の著書がある。『修善寺・紅葉の誘拐ライン』が文藝春秋2004年傑作ミステリー第9位にランクイン。

 

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