第29回「小説でもどうぞ」選外佳作 人生は癖だらけ 稲尾れい
第29回結果発表
課 題
癖
※応募数288編
選外佳作
人生は癖だらけ 稲尾れい
人生は癖だらけ 稲尾れい
事務所に出勤し、自席でメーラーを立ち上げると、差出人の中にT山氏の名前が見えた。それだけでもう、私の胃の底はズンと重くなった。メールの内容は、先日こちらから送った書類案をT山氏の方で確認の上修正したので返送する、というもの。『当方の指示が全く反映されていなかったので、大幅に修正しました』と、案の定刺のある物言いだ。
T山氏はこの特許事務所の顧客である大手電機メーカーの知財部員だ。事務所に特許庁手続用の書類作成を依頼する際の指示は端的を通り越して言葉足らずなのに、こちらから確認の意味を込めて送った暫定案には毎回やたらと否定的な言葉を尽くして返事をしてくる。事務所と顧客のやりとりを仲介する立場である特許事務員の私もそれなりにストレスを感じるけれど、実際にこれらの指示に従って書類の作成や修正を行う弁理士たちは更に心がすり減るだろうな、とつい同情してしまう。
『貴所の稚拙な対応を改善すべく、ご検討申し上げてください』
メールはそのような文言で締めくくられていた。内容の刺々しさもさることながら、文章そのものの奇妙さにもモヤモヤして、思わず画面を閉じる。受領したメールと文書のデータを保存しなければいけないのだが、一旦気持ちを切り替えようと首を振って立ち上がり、事務所の冷蔵庫に置いているお気に入りのチョコレートを取りに行くことにした。
冷蔵庫がある給湯スペースでは、弁理士の復本さんが機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら、コーヒーを淹れていた。何かのCMソングだったか、耳に馴染みのある軽快なメロディに、何となく私の気持ちまでもが軽くなるようだ。
「お疲れ様です」彼女に会釈しつつ冷蔵庫を開くと、「あ、宮前さん」と声を掛けられた。「さっきのT山さんからのメール、返事は私の方でしておくから。データの保存だけ、お願いします」
先程のメールは確かに、復本さんが担当する案件に関するものだった。「はい」私が余程しょぼくれた表情を浮かべていたらしく、復本さんは「いつもすみませぬ」とおどけた笑いを浮かべ、また鼻歌で自席に戻っていった。私と同年代の彼女は、いつも泰然としていて大人に思える。今年三十歳になろうとする私の方が、いつまでも歳相応の大人になれていないのかも知れなかった。
そんな私はその日の帰り道、自宅の最寄り駅で転んだ。駅の床には白と灰色と黒の長方形のタイルが貼られ、三色が一定の法則で並んでいるのかと思いきや、枚数の関係なのか時々並び順が乱れていたり、点字ブロックの付近は並びが変則的だったりする。私には白いタイルだけを踏んで歩く癖があるのだが、反対側から歩いて来る人を避けようとして黒いタイルを踏みそうになり、それを回避しようとして足がもつれてしまったのだった。幸い大した怪我もなかったけれど、段差も何もない床で転んでみると、自分の癖の変さを再確認して何とも情けない気持ちになった。
それから数日後、復本さんが担当している例の案件に対してまたT山氏からメールが来た。T山氏の指示に不備があったので復本さんが指摘したところ、『貴所はどのような料簡でそんなことを申し上げるのでしょうか。理解に苦しまれます』と怒りを露わにした返事が返ってきのだった。けれどすぐに復本さんの指摘が正しかったことが判明したらしく、『指示を修正するので早急に手続を願います』という簡潔なメールが追って送られてきた。
T山氏からの一連のメールを保存すると、私は席を立った。チョコレート、あと何粒残っていたかな、と考えながら冷蔵庫に向かう。コーヒーの香ばしい匂いと共に鼻歌が聞こえた。今日の鼻歌はいつにもまして力強く朗らかな感じがする。そう思った瞬間、はぁーあ、と深いため息が鼻歌に混ざった。
「あの、お疲れ様です」私が声を掛けると、復本さんは鼻歌を止めて振り向き、きまり悪そうに笑ってみせた。
「あ、私また歌ってましたね。やだなぁ。変な癖なの」もじもじとマグカップの縁を撫でる姿に、鼻歌は彼女の無意識のストレス解消の手段なのかも知れない、と思った。私は冷蔵庫を開け、箱の中にチョコレートが二粒残っているのを確認すると「良かったらおひとつどうぞ。気分転換に」と彼女に差し出した。
「良いじゃないですか。T山さんなんて、いつもメールで尊敬語と謙譲語を逆に使ってくる癖があるし、あっちの方がよっぽど変……」いつも感じていたモヤモヤを、思わず口にしてしまった。チョコレートを口に含んだ復本さんは、可笑しそうな表情を浮かべつつも返答に困ってもごもごしている。
「それに私も、変な癖ありますよ。そのせいで、この間駅で転んじゃって」慌てて言葉をつなぐ。復本さんはまだもごもごしていたけれど、「何でですか」と今度は笑ってくれた。
(了)