第10回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 タイムスリッパ 静輝陽
第10回結果発表
課 題
さだめ
※応募数276編
タイムスリッパ
静輝陽
静輝陽
「これを履いて駆けて転ぶと時空間を飛ぶことができる、タイムスリッパじゃ」
博士が深緑色のビニール製スリッパを物々しく掲げた。
「トイレのスリッパではないのかね」
研究発表に集まった所員と共に聴いていた所長には、研究所の余興で卓球のラケット代わりに使ったスリッパにしか見えないようだった。
博士は早速そのスリッパを履いて、廊下に敷いたビニールシートに印字した年表の年代順に、現代位置をスタートとして過去に向かって逆走した。そして、いい国つくろう鎌倉幕府のところでコケた。現代に戻るための予備の年表を丸めて脇に抱えたまま、白衣を翻して鎌倉時代に吸い込まれるように消えた。
数秒後、廊下に敷いた年表の現代位置に汗だくでハアハア言いながら出現した博士は、所員たちの拍手に迎えられて溜息をついた。
研究室で博士は、持ち帰った干物の肴で助手相手に祝杯をあげていた。
「鎌倉時代の物品だとみんなが納得する土産はなかったんですか」
「刀が欲しかったんじゃが、ケチの頼朝に、もののふの魂だからと断わられたんよ」
二人がソファで寝ている隙に、甲のところにプロトタイプLとプロトタイプRと書かれた、一足分しかない試作品のスリッパが年表と共に盗まれた。
廊下にガムテープで固定したままの年表の上には、右片方のスリッパと丸めた年表が転がっていた。博士は年表を拾い上げて、スリッパを履いた右足でピョンピョン跳ねながら1192年へ再び飛んで行った。何でまた鎌倉幕府でコケたんだろう。
数秒後、博士が所長と肩を組んで各々片足ずつスリッパを履いて戻って来た。
「勘弁して下さいよ、所長」
「いやあ、わりーね。つい魔が差してな」
土産は魚の干物だった。
博士と所長が研究室のソファで寝息を立てる頃、助手は戸棚からタイムスリッパと丸めた年表をそっと取り出した。
廊下に敷いたままの年表の上を駆け抜けながら、平安、奈良、更に弥生、縄文時代まで飛んでみようかと考えた。裸足だと水虫がうつったりしないか気になったので、靴下のままでスリッパを履いていた。その潔癖症があだとなった。意識した鎌倉時代越えのところで、両足のスリッパが滑って抜けてコケた。
博士と所長が飲酒後の喉の渇きに耐えられずに起きて、いなくなった助手と廊下に残されたスリッパに気が付いた。
二人は片足ずつスリッパを履いて肩を組んだまま、ピョンピョン跳ねて助手を追った。
助手は鎌倉時代で盗賊の一味と疑われて投獄されていた。
「不思議な国の民よ、また来たか」とご満悦の頼朝の前に進み出て、博士と所長は助手の釈放を懇願した。
「おぬしらの家来とあってはしかたがないのう。また干物を持ち帰るか」
「いいえ結構です」
「助手を連れ帰ることが叶えば充分ですじゃ」
「そうか、欲のない民よのう」
助手は体重が軽かったので、横並びの博士と所長の間に立って肩を組んでスリッパを履いた。両脇の二人は片足ずつ、スリッパを履いた助手の足の下に差し込んだ。博士の右足は助手の左足の下、所長の左足は助手の右足の下となり、スリッパはパンパンに膨れた。
三人は横に並んだまま、八幡宮の敷地に敷いた年表の上を鎌倉時代から現代に向かってピョンピョン跳ねた。真ん中の助手は両足を同時に跳ね、左右に並んだ博士と所長は片足で跳ねた。両脇の二人は跳ねて着地の度に踏まれる足が痛かった。このとき、助手だけがスリッパのLとRを逆に履いていた。三人が消えると年表も消えた。
現代に戻って下になっていた足がスリッパからすっぽ抜けて、博士と所長は尻もちを着いた。真ん中にいた助手は勢い余って、現代を通り越して跳ね続けて、年代の記載の無い位置でコケて消えた。一緒に戻って来た帰還用の年表は、床に転がり残されたままだった。
一分後に現代に舞い戻った助手は、ボサボサ頭で白衣は汚れてボロボロ、脱いだ靴下は伸びきったスリッパの隙間に押し込んでいた。スリッパはもう使い物にならない状態だった。
博士はタイムスリップより歴史自体に興味を持ち、祖先がワラジや干物を研究していたことが分かった。所長の祖先が鎌倉の御家人だったことも家系図より判明した。
タイムスリッパを左右逆に履いて未来を飛び回った助手は、何度も転ぶことでやっと現代に辿り着けた。彼は知り得た未来の断片を研究著書としてまとめた。題名は『この世のさだめ』。のちの人はそれを大予言と恐れた。
(了)