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第10回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 人間の街の子 稲尾れい

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第10回結果発表
課 題

さだめ

※応募数276編
 人間ひとの街の子 
稲尾れい

 夢山は、夢見台ニュータウンの中央に残された天然の小山だ。東京近郊に位置するこの一帯が人間の手で開発されるはるか昔から、私たちの先祖はこの山を住処にして生きてきた。
 手軽なハイキング場として人間の出入りも多い夢山で生きてこられたのは、母方の一族に伝わる能力のお陰だ。仲間たちの中で私の一族だけが生まれながらに人間に化ける能力を持つ。その証のように、頭上には生まれつき、柿の葉に似た形の模様があった。能力のお陰で私たちは自然に人間の社会に入り込み、親離れを迎える秋には自力で人間のお金を稼ぎ、食料を得ることすら出来るようになっていた。
 そして、これも能力の影響だろうか。毎年春が訪れるたび、他の仲間たちには数匹ずつ子供が生まれるのに、私たちの一族に生まれるのはたった一匹。それも決まって女の子だった。

 一年前の今頃、私も初めて子供を産んだ。頭上に一族の能力の証である柿の葉の模様はなく、代わりに小さな白い星のような模様が、丸い耳と耳の中間辺りにポツンと付いていた。
「あぁ、この子は人間の街でもどっこい生きていける子だ。あたしたちの誰よりも上手にね」
 星の模様を見て、一族の長老であるアケビばあちゃんが言った。普段は一日中うつらうつらと舟を漕いでいるばあちゃんがあんなに目を開き、真剣な口調で言うのを初めて見た。密かに不安だった私は、少し元気付けられた。けれど生後一か月が過ぎても、あの子は一度も人間に化けるそぶりすら見せなかった。
 化けられないなら、その分狩りや残飯漁りの技を身に付けさせないと。人間が操縦する自動車にも気を付けないと。そんなことを考えていたある日、あの子は突然連れ去られた。食料を探しに行く間、山道の側溝にあの子を隠したのがいけなかったのだ。私が戻ったときには年老いた人間の男女が側溝のふたを外し、中にうずくまるあの子に手を伸ばしていた。
「母親とはぐれたんだな」
「まだ小さいのにねえ。可哀想に」
 そのとき、私は本来の姿をしていた。人間に化けていたら、取り返す術があっただろうか。人間たちの上着に包まれたあの子を、私は草むらに身を潜めて見送ることしか出来なかった。
 独りになった私を、他の仲間たちは哀しげな目で見守っていた。仲間たちのそばには、ころころと丸っこい子供たちがそれぞれ何匹も寄り添っていた。私はたまらなくなり、木陰でうつらうつらしているアケビばあちゃんのところへ駆けていって体をすり寄せた。
「大丈夫だよ」ばあちゃんは薄目を開けて言うと、また舟を漕ぎ始めた。私はその日から毎日街に下り、あの子の行方を探し歩いた。

 再び春が巡り、私はついに見付けた。夢山の麓近くにある市営動物園にあの子はいた。
『誤認保護により親から引き離され、ヒトの手で育てられました』
 そんな説明が柵に貼られ、その向こうで腰を落としてこちらを見る目元は、別れた頃にはまだ幼くてはっきりと現れていなかった黒い模様で縁取られていた。
 頭上の白い星は残っていた。柵のプレートに『ポンカン』とあるのは、星の模様を柑橘のヘタに見立てて名付けられたらしい。豊かな毛並みはつやつや輝き、今まで夢山で生まれ育つのを見てきたどの子供たちよりもよく肥えている。柵の前に立ち止まる人間たちが、ポンカン可愛い、モフモフだね、などと口々に声を上げる。
 人間に化けた私も柵に顔を近付け、私たちの仲間の言葉で呼び掛けた。あの子はゆっくりと腰を上げ、私の方へ少し歩み寄ってくる。ああ、私の可愛い子。本当に大きくなった。本来の姿に戻ってしまいそうなほどの歓喜に包まれた刹那、あの子は立ち止まり、きょとんとした様子で首を傾げた。
 私はもう一度呼び掛けた。あの子にはもう私の言葉が通じていないのがわかった。
「ポンカン、ご飯だよ」
 鶏むね肉やサツマイモが入った容器を抱えた人間が柵の内側に入っていくと、あの子は私に背を向け、人間に向かって前脚と後脚で交互にステップを踏むような動きをした。それはごく幼い頃、私にしてくれた仕草だった。
 私は柵を離れ、そのまま動物園を出た。夢山に入るやいなや、普段ならまだ警戒している地点でもう本来の姿に戻り、四本の脚で地面を蹴る。あの子はきっと飢えることも凍えることも知らず、交通事故にも遭わず、夢山の仲間たちよりもずっと長く生きるだろう。自力で食料を確保する必要も、もちろん人間に化ける必要もなく、ありのままの姿で人間を愛し、人間に愛されたまま、生きて死ぬだろう。あの日、私の手を離れて人間に連れていかれたことは、それでもあの子にとって幸せなさだめだったと言えるのか。私にはわからない。
「えっ、今のって、たぬき!?」
 山道にいた人間が声を上げた。その声を後ろに置き去りにして、私は木々の生い茂る夢山の奥へ奥へと、どんどん駆け上ってゆく。
(了)