第10回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 記憶の序章 渡鳥うき
第10回結果発表
課 題
さだめ
※応募数276編
選外佳作
記憶の序章 渡鳥うき
記憶の序章 渡鳥うき
塚田晴夫が目を覚ますと、二人の男が上から覗き込んでいた。四、五十代頃の男で、どちらも白衣を着ていた。ほの暗い部屋。彼らの頭越しに蛍光灯が見えていた。
「ここはーどこですか?」
塚田は尋ねた。見覚えのあるものが何もなかった。
「覚えていませんか。塚田さん」
右側の男が言った。こちらの方が左の男より少し若かった。ツカダサン。塚田はそれが自分の名前なのかもピンとこなかった。
「塚田……は僕の名前ですか?」
「そうですよ。塚田晴夫さん。それがあなたの名前です。年齢は三十六歳。ここがどこなのかもお分かりになりませんか?」
男の口調は静かで丁寧だった。白衣を着ているから医師なのだろう。だが何もかもぼんやりしている。塚田は自分の手の平を広げてみた。そこに何が書いてあるわけでもないのに。だが手首に包帯が巻かれていた。
「ああ、それは怪我をされたんですよ。まだ治っていないので取らないで下さい」
話すのは右側の男ばかり。しかし怪我をした覚えもない。塚田は寝ていたベッドから起き上がった。白い壁。白い天井。窓には白いカーテンが掛けられていた。やはり病院らしい。けれどどうしてここに運ばれてきたのかが分からなかった。
「僕は、いつここに?」
首を擦って顔を上げると、二人の医師は軽く目配せを送り「半年前です」と答えた。
「あなたはとても大きな事故に遭われ、こちらに搬送されたのです。怪我の方はほぼ完治しましたが、頭を強く打ち付けた後遺症で記憶障害が残り、それだけが改善されていません。私たちはあなたの記憶が戻るお手伝いをしたいのです。というのも、あなたが遭遇された事故で大変多くの犠牲者を出しましたが、目撃者も極めて少なく、直接的な原因が不明のままで、あなたの記憶だけが頼りなのです」
若い方の男が言った。もうひとりの男はひどく無口で、時折塚田に睨むような目線を走らせた。塚田は彼を警戒した。きっと脳科学の権威とかで、自分を逐一観察してるのだ。否応に発する威厳の圧に思わず肩を縮めた。
「一体どんな事故だったんですか? それだけの犠牲者が出るなんて。爆発……とかですか?」
「バスの横転事故です。あまり車通りのない道で起きたため、目撃者がいないのです」
「えっ……。では犠牲者というのはバスの乗客の人たち……ということですか?」
「そうです。塚田さんは運良く命を取り留めたのです。そこでこの音楽を聴いて頂きたいのですが」
二人はちらと合図を送ると、ベッドに腰掛ける塚田の脇に博士風の男が立った。話を続ける男がスマホを取り出した次の瞬間、音楽が鳴り響いた。
ババババーン、バ、バ、バ、バーン。
印象的な序章。ベートーベンの代表曲交響曲第五番『運命』だった。激しい演奏は白く狭い部屋ではち切れそうになっていた。塚田は背中がむずむずし、頭の奥がツーンとした。
「これは……?」こめかみを押さえた。
「こちらは救助された塚田さんのイヤホンから流れていた音楽です。この曲を聴いてなにか思い出せませんか? 記憶というのは聴覚や嗅覚と直結しています。眠っていたものが呼び起こされるのにとても効果的なんです。それと、こちらを……」
男が手渡したのは、ジップロックに入った四つ折りの水色のハンカチだった。塚田はそれを見た途端「あっ……!」と声を出した。
「事故現場であなたが握り締めていたハンカチです。見覚えがあるんですね?」
塚田は必死に記憶を辿りながら頷いた。『運命』は流れ続けていた。曲が盛り上がるほどに遠い映像が浮かび上がってくる。若い女性の悲鳴を聞いた気がした。
「肩までの黒髪の……女子大生風の……。なんかそんな感じがぼんやりと……」
しかし突然の頭痛と吐き気が塚田を襲い、それ以上続けるのは今日は困難と判断したのか、二人の男は部屋を出てから電子式の鍵を掛けた。
「今日は収穫ありましたね。過去十年間の捜索願者から黒髪の若い女性をリストアップしてゆきましょう」
若い方の男が歩きながら白衣を脱いだ。ああ、と博士風の男も袖を外した。
「塚田晴夫は犯行に及ぶとき『運命』を聴いていたと、ただひとりの生還者が証言してた。しかもこいつは戦利品として殺した人間の所持品を持ち去ってコレクションするんだ。自宅の箱にあったのは四十六人分のジップロック。これでまだ十八人目。バスの横転事故で偶然逮捕できたはいいが、まだまだ先は長いぞ」
腰に拳銃を差した二人の刑事は、蝉の声がさんざめく午後の廊下でうなじの汗を拭った。
(了)