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第11回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 ひとつかみの善意 ともみ

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第11回結果発表
課 題

善意

※応募数253編
ひとつかみの善意 
ともみ

 発作の衝撃に心臓がきゅっと縮こまり、とうとう活動をやめたとき、泰造は自分が死ぬことを悟った。
 まだ昼の十二時前だ。トタン張りの一人暮らしの寂しい家で、カラスの鳴き声を聞きながらひっそりと死ぬことになろうとは。
 ポンプが止まり、体の中を巡っていた血液は滞留した。肺も膨らんだまま二度と空気を押し出すことはない。脳は残った酸素を取り入れて最後の活動をはじめた。それで、彼はぼんやりした意識で、七十八年の人生について想いをめぐらせることができた。
 はるか昔に離婚してからはずっと独り身だったし、安月給の運送会社にこき使われてきたあげく、末期がんになった。この人生、何かを成し遂げたわけでもなく、未練というものもない。ただ、思い残すことが一つあるとするならば、彼女のことだけだろうか。
「うどんが出来上がりましたよ……うそ、泰造さん!」
 訪問介護ヘルパーの黄色いポロシャツ姿で、髪をひとつ結びにした若い女、鈴木莉子は、泰造の異変に驚き、料理を乱暴において、彼の横に膝をついた。
 莉子は胸に耳を押し当てて、鼓動がないことを確認する。その丸くて小さな頭の重みを、泰造は冷たくなっていく体で受け止めた。
 この二十代前半の娘が、彼の最後の生きがいだったと言ってもいい。
 寝たきりになった後も、泰造に向き合ってくれたのは彼女だけだった。老いぼれのつまらない話を聞く彼女は、潤んだ目をまっすぐにこちらに向けて、口角をあげるといつもえくぼがでて、天使のように可愛らしい子だった。
 彼女は胸から頭を離すと、すぐに携帯を取り出し、施設に事務連絡を入れる。
「内田泰造さんが亡くなっていて……持病のせいだと思います。そうです、心臓発作。病院に連絡してもらえますか」
 冷静な様子に感慨深くなる。彼女も大きく育ったものだ。三ヶ月前、担当ヘルパーになりたての頃は、動作の一つ一つがおぼつかなかったというのに、今やきびきびと手際よく、泰造の開いた目を閉じさせ、髪を整え、口元の保湿のためにワセリンを塗るなど死後の体のケアを始めた。
 それから彼女は、寝室の隅にある箪笥たんすの中をごそごそと漁り始めた。最下段の底板が二重になっているのを見つけたようだ。
「お、あった」と小さく喜びの声をあげる。
 彼女は分厚い封筒を両手で大切に抱き込み、泰造の枕元に膝を折って座った。
「泰造さん。今までありがとう。最後にこれ、もらっていきますね」
(いいよ、好きなようにしなさい)
 泰造は心からそう思った。
 その封筒には現金七百万円が入っている。
 特に趣味もない人生で、せっせと貯めた箪笥貯金だった。その金に、莉子がずっと目をつけていることは、彼も知っていた。彼女が忘れていった手帳を一度見てしまったからだ。
 そこには、彼女が訪問介護する老人たちの貯金額と保管場所(だいたいが箪笥か引き出しの中だ)と、その貯金を知る親族の有無がリストになっていた。
 泰造の欄には「約七百万、箪笥の最下段、親族なし」と書かれており、おまけに「末期がんのため死期は間近」とまで丁寧にメモされていた。
(全く、賢いのだか、ばかなのだか)
 必死で札束をリュックの底に詰め込む彼女に、あきれるような、可笑おかしいような心地になる。あのリストは孤独な老人が死んだあとに、もはや誰にも知られていない現金をこっそり持ち帰るためのものだったのだ。
 莉子の悪行を知ってもなお、しかし泰造の気持ちは穏やかだった。理由はある。
 それは、彼女にはゆるぎない善意があったと信じているからだ。
「莉子、幼い頃、ネグレクトされていたんです。お世話してもらえないことの辛さを知っているからこそ、わたしには介護の仕事が向いてると思うんです。泰造さんを幸せな気持ちにできるように心を込めてお世話しますね」
 あれは本物の言葉だった。それを裏付けるように彼女の介護の手つきは、誰よりも丁寧だった。だから泰造は今日、彼女が訪問介護に来る日を選んで、こっそりと多めの咳止め薬を飲み下しておいたのだ。
 狙い通りに副作用の発作がおきて、彼女に小遣いを譲ることができたのだ。十分満足だ。
 やがて家の門前に車が止まる音がして、若い男の医師が上がり込んできた。医師は莉子と一緒に彼の顔をまじまじと覗き込むと言う。
「お亡くなりですね。それにしても、なんだか幸せそうな表情でいますね」
 ええ、と莉子は神妙に頷く。
 白い布を顔にかけられる。それと同時に泰造の脳は活動をゆっくりと終えたのだった。
(了)