第11回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 善意のポケット 井上佳子
第11回結果発表
課 題
善意
※応募数253編
選外佳作
善意のポケット 井上佳子
善意のポケット 井上佳子
自宅マンションのポストを開けると、分譲マンションの販売や、学習塾の生徒募集のチラシに混じって、一面、薄ピンクの紙が入っていた。A4サイズ、ざらざらとした、あまり上等ではない紙に自前で印刷したようなチラシだ。紙の半分ほどを占める赤く大きなハート模様と、それを両手で包むイラスト。そして「ポケットの中のあなたの善意をわけてください」との文字。「善意のポケット」という団体がつくったチラシらしい。「あなたのポケットの小銭をご寄付ください。たくさんの方のご協力で、戦火の子どもたちを支援する大きな力になります。こ負担にならない程度のあなたの善意をぜひ!」と書かれている。寄付金が送られるのはウクライナだろうか、ガザだろうか。
ポケットの中の善意か。隆は思わず、上着のポケットを探った。出てきたのは、昼に弁当を買ったスーパーのレシートと、昼食後にのんだ整腸剤のプラスティックシートだけ。小銭はない。小銭をポケットに入れている人はどのくらいいるのだろう。隆はそんなことを思いながらエレベーターに乗り込んだ。
「善意のポケット」は、隆の住むマンションの数軒先にある小さなカトリック教会の活動のようだった。チラシの下の方に、その教会の所在地と電話番号が記されている。そうそう、津川教会だ。民家を兼ねたような小さな教会で、入口に、その月の催し物を書いた木の案内板がある。夕方になると、赤い十字架が電気で光り、近所の子どもたちの間では、以前から不気味だと不評だった。あまり人の出入りを見たことがない。
再来週の日曜日に、この教会で豚汁とおにぎりの炊き出しがあり、そこに募金箱が置かれるそうだ。チラシには、炊き出しのボランティアを募集していることも記されている。
五階でエレベーターを降り、自宅のドアを開けると、リビングで、高校生の真奈美がソファでスマホを覗いていた。
「おかえり」
妻の裕子と真奈美が同時に顔を上げた。
「ただいま」
隆が、手にしていた数枚のチラシをテーブルに置くと、ピンクのチラシを目にして真奈美が言った。
「私、そこに行くんだ」
「津川教会?」
隆が尋ねると、真奈美がうなずいた。
「そうそう、ボランティア募集ってやつ」
「へー珍しい」
コロッケを揚げていた裕子が言った。
「半日だし、内申書に書いてくれるし」
聞けば同じチラシが真奈美の高校で配られたらしかった。担任は、ボランティア活動として内申書に記載できるので、行ける者はぜひ行くよう勧めたそうだ。真奈美は年が明ければ高校三年。大学受験だ。
「だって、うちの近所だし、行かない理由ない。ボランティア、何も書くことないから、どうしようと思っていたところだったんだ」
「そうか。そんなのでいいのか」
隆は釈然としない気分だった。そんな動機で炊き出しに参加してもいいのか。勧める担任も担任だ。
「いいんだよ、そんなもんだよ。みんな、そんな手軽な物件、探してるんだから。いくつか書けばそれなりに見える」
隆は黙り込んだ。薄っぺらな善意だ。まあでも別に悪いことをするわけでもなし、特別反対する理由もない。
「ちょうどよかった。そのチラシちょうだい」
裕子がキッチンの奥から隆に声をかけた。
「キッチンペーパーが切れてて、困ってたの。それ使うから」
隆がチラシを渡すと、裕子は皿の上にチラシを敷き、その上に一枚だけ残っていたキッチンペーパーを置いて、コロッケをのせた。真奈美が面白がって、チラシのハートの部分に合わせてキッチンペーパーを切り取り、そこにコロッケを乗せると、コロッケは善意の両手で包まれた。真奈美が隆にコロッケを薦めた。
「善意のコロッケをどうぞ」
揚げたてのコロッケは美味しかった。
二週間後の日曜日、隆は散歩のついでに津川教会をのぞいてみた。いつもひっそりとしている教会は人で埋め尽くされ、教会の前の道路まで人があふれている。その多くが真奈美のような高校生だ。炊き出しの豚汁とおにぎりの前に何人もの高校生が陣取り、来る人を待っているが、訪れるのは近所のお年寄りや子供連れの母親がちらほら、といった感じだ。豚汁を渡すあたりは高校生であふれていて、真奈美は入り口の案内板のそばに友人と立っていた。スマホを覗き込んで手持ちぶさたの様子だ。
「真奈美」
声をかけると真奈美は顔を上げた。
「することないし、もう帰ろうかなあ。一応、来たことは来たし。うちでゲームしようかと話してたところなんだ」
真奈美は隣の友人と顔を見合わせた。
教会の案内板の下に椅子があって、そこに手作りの紙の募金箱が置いてあった。募金箱には「善意のポケット」と書いてある。あーそうだった。隆はまたもやポケットを探ろうとしたが、きょうは上着ではなくセーターだ。ポケットはない。ズボンのポケットにも小銭はない。財布も持ち合わせていない。募金箱をつつくと、ぱらぱらとまばらな音がした。
「ま、いいか」
青空を見上げ、隆は散歩を続けることにした。
(了)