第11回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 優しいうそ 千波RYU
第11回結果発表
課 題
善意
※応募数253編
選外佳作
優しいうそ 千波RYU
優しいうそ 千波RYU
じいちゃんを見舞った帰り、施設の裏の路地を歩いていたら、怪しげなバス停留所が目に入った。
道端のベンチには男女数人が座り、足元には大小の手荷物。じいちゃんと同じ施設に入所する認知症のお年寄りたちだ。
路線バスなんか来るはずないのに……。不審に思って近づくと、案の定、バス停は物干し台に金属製の標識を付けただけの手作りだった。標識には〈△△施設前〉、すぐ下には〈〇〇駅行〉の文字が読み取れるが、時刻表は空欄のままだ。
見てはいけないものを見てしまった気がして足を速めたとき、
「きょうはバスの到着が遅れるみたいなので、いったん施設に帰りましょう」
水色のナースウェアを着た付き添いの女性の声に、思わず足が止まった。
「またかいなぁ」「しゃぁないな」
お年寄りたちはぶつぶつ言いながらも、荷物を手に施設の方へよろよろ歩き出した。
路上に残されたニセのバス停とベンチ。明日もまた使うのだろう。白く塗装されたベンチの背もたれには〈チョコレートは明治〉の赤い文字が透けて見えた。
家に帰りたがる入所者はあのバス停でしばらく待つと落ち着くのだと、後日、知り合いのナースが教えてくれた。それってだましじゃん――って思ったけど、口にはしなかった。
じいちゃんに話したら、眉根を寄せて腕組みした。米寿を過ぎても四十年勤めたバス運転手としての気概と矜持は健在。
だから僕が持ちかけた計画にも、「達夫は優しいのう。やってみい」と言って右手の親指を突き立てた。達夫は僕の父の名前だ。
金曜日の夕刻、レンタルした大きめのワゴン車を運転して施設へ向かった。お年寄りをだますのは心苦しいけど、一瞬でも喜ばせてあげたかったのだ。
職場の上司からパワハラを受け、会社を休職して三か月。自分は役立たずのクズなんかじゃないってことを証明したかったのかもしれない。
久しぶりにハンドルを握ると、戦闘モードのスイッチが入り、頭の中にロッキーのテーマが流れ出す。
バス停前には六人が待っていた。僕のじいちゃんもいる。付き添いは小太りのナース。車を止め、左側のスライドドアを開けた。
「あっ、バスが来た」「あれまぁ、待ったかいがあったねぇ」
驚きと歓喜の混ざった声が聞こえた。
「〇〇駅行きのバスです。七十歳以上の方は無料ですので、そのままお乗りください」
僕のうそを信じ、男性が乗ってきた。
「これはバスじゃありませんよ。ちょっと関根さん、乗っちゃだめですって……」
ナースは慌てて男性を引きずりおろし、僕に向かって「悪ふざけはやめてください」と怒気を含んだ声で言った。
僕は焦ってじいちゃんを捜した。バックミラーにその後ろ姿が小さく映った。オレに任せろ――って昨日までは勇ましかったのに。
「この辺を一周して戻りますから。たまにはホントに乗せてあげないと……」
やっとの思いで言い返した。
するとナースは素早く後部座席に乗り込み、耳元でささやくように言った。
「あなた、もしかしてゼンイのつもり?」
とっさに意味がわかず、首をひねると、
「そんなんじゃないわよね」
しわがれた別の女性の声がした。小柄な老女がナースの脇にちょんと座り、にこにこ笑っている。
「ありがとね。私たち、ずーっと待ってたんだから。バスが来るの」
それを聞いて路上にいた三人も「そうそう」と言いながら乗ってきた。ナースはあきれ顔で笑っている。
ドアを閉め、さてどこへ行こうかと考えていたら、後ろから声がした。
「運転手さん、安全運転で頼みますよ」
「そうそう、どこでもいいから」
振り返ると、みんなが笑いながら僕を見ている。孫を見るような優しい目で。
――この人たちは初めからわかっていたんだ。このバス停で待ってもバスなんか来るはずがないってことを。なのに僕のうそにだまされたふりをしてくれている……。
気付いた途端、沿道に咲き乱れるピンク色のコスモスが滲みながら揺れ出した。独りよがりで幼い僕をあざ笑うみたいに。
「それでは発車いたしまーす」
声は少しくぐもってしまったが、乗客たちからぱちぱちと拍手が起こった。
僕は軽くクラクションを鳴らし、ゆっくりとアクセルを踏み込む。ロッキーのテーマはもう流れてこなかった。
(了)