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第11回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 好意は野の鳥 稲尾れい

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第11回結果発表
課 題

善意

※応募数253編
選外佳作
 好意は野の鳥 稲尾れい

「あのっ。席、どうぞ」
 目の前に座っていた紺色のスーツの男性が立ちあがり、ぎこちなく言った。言った途端、電車の揺れに軽くよろけた。
 つり革の輪っかを両手でつかみ、前腕の間に頭をおさめて、朝陽に照らされる街並みをぼんやりと眺めていた私は、相手がこちらを見ていることに一拍遅れて気付いた。
「ふぁっ、ふぁい?」マスク越しに、くぐもった変な鼻声が出る。
「席、どうぞ。自分はもう降りますんで」
 相手はもう一度、先程よりはきはきと言った。男性、というか私より一回りほど若い男の子だ。着ているものもリクルートスーツっぽい。この四月から新卒で働き始めたか、あるいは就職活動中なのかも知れない。
 一瞬断ろうかと思うも、それもお互い気まずい。結局、お礼を言って席に腰を下ろした。男の子は面映ゆそうに口角を上げ、少し離れたドアの方へと足早に行ってしまった。良い子だなあ、と思うと同時に、居たたまれなさに思わず肩をすぼめた。涙目でぼーっとしていたし、マスクをしているし、その下からもれる息も我ながら荒い。きっと私の体調が悪いように見えて席を譲ってくれたのだろう。
 確かに体調は万全ではない。けれどそれは花粉のせいだ。今朝は特にたくさん飛散していたらしく、自分のくしゃみで目覚めた。お化粧の最中も鼻水が止まらず、苦肉の策として丸めたティッシュを鼻に詰めてみた。やや息苦しさはあったけれど、案外うまく収まったのでそのまま上からマスクをして家を出、今こうして通勤電車に乗っている。立っていても別につらくはなかったし、慣れない環境で日々頑張っているであろう若者に席を譲らせてしまう必要などなかったのだ。
 もう降りると言っていたリクルートスーツの彼はドアの脇に立ったまま、三駅目で降りていった。親切にありがとう、そして折角の好意の受け手がこんな、鼻の穴にティッシュ詰めている奴でごめん……と、閉まるドアの向こうに心の中で語り掛ける。己の姿の間抜けさと男の子への申し訳なさを改めて感じ、申し訳ないのに思わず吹き出してしまう。
 相変わらず息苦しくて頭もぼーっとしていたけれど、花粉とは無縁の清々しい一陣の風に吹き抜けられたような心持ちになった。

 帰りの電車に乗る頃には、症状はかなりましになっていた。気温が下がる夕方も花粉は飛散するのだというけれど、仕事終わりの解放感が作用しているのだろうか。鼻に詰めていたティッシュも職場に着いて早々に取り去り、こまめに鼻をかむことで何とかなっている。いくつか空いていた席のひとつに腰を下ろし、バッグから読みかけの本を取り出してほっと息をついた。
 何駅か過ぎ、車内は次第に混み始めた。私と同じく三十代半ばくらいの男女二人連れが乗ってきて、女性の方は私の隣、男性はその向かい側に分かれて座った。ふたつ並んで空いている席がなかったらしい。二人はそれぞれ手にしたバッグの中をごそごそと探ったり、スマートフォンをいじったりと手持ちぶさたそうにした後、視線を交わして少し笑い合った。
 私は朝の電車で席を譲ってくれた男の子を思い出していた。私には分不相応だったあの好意、今度は私が他の誰かに渡すチャンスなのでは? そう思うと、もはや読んでいる本の内容も頭に入ってこないほどそわそわした。二人が並んで座れるように、席の交換を申し出るのだ。おもむろに席を立ち、向かい側の男性に近付き、声を掛ける。「あ、あのー」
 そのとき、キャリーバッグを引いた初老の女性がつかつかと近付いてくるのが視界の端に見えた。あっと思う間もなく、今さっきまで私が座っていた席にすっと無駄のない動きで腰を下ろし、膝の前にキャリーバッグを安置して、全てを遮断するように目を閉じた。
 男性の方に向き直ると、相手は私の言葉の続きを待つように首をかしげた。私はマスクの下で口をもごつかせながらキャリーバッグの女性の様子をうかがったが、背筋を伸ばして目を閉じたまま、微動だにしない。その隣で、男性の連れの女性だけは私の意図に気付いたらしく、眉を下げて苦笑いをしてみせた。
 私は二人にあいまいな会釈をして隣の車両に逃げた。幼稚園児の頃、屋外で菓子パンを半分に割った瞬間トンビに奪われて号泣した記憶が唐突によみがえった。確か、仲良くなりたかった子に半分あげようとしていたのだ。
 気付けば一番前の車両まで来ていた。つり革の輪っかを両手でつかみ、前腕の間に頭をおさめると、長い鼻声のため息が出た。
「席、どうぞ」
 私の目の前に座っている人が腰を浮かせる。
「あっ、もう降りるので大丈夫です」
 本当はあと三駅あったけれど、とっさに答えた。私は相手をそっと押しとどめて座らせ、少し離れたドアの方へと歩いていった。
(了)