第11回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 譲り屋 犬場かや
第11回結果発表
課 題
善意
※応募数253編
選外佳作
譲り屋 犬場かや
譲り屋 犬場かや
後方から微かにサイレンの音がする。
俺は些細な音も聞き逃さない。バックミラーに派手な赤色灯が映る。救急車だ。ハンドルを握る手に力が入った。
この先、百メートルで交差点に差し掛かるが、信号は赤。右折レーンはすでに詰まっている。左折レーンも同様だ。道を空けられるのは、この直進レーンだけなのだ。すべては俺にかかっている。
俺はプロの譲り屋だ。感情に任せた判断で身動きが取れなくなる危険を知っている。
俺はブレーキペダルを踏み込み、前の車から十メートルほどの距離を取って停車した。横に避けるのではなく、縦にスペースを空けるのが、よりベターな選択と言えるだろう。「右折レーンの車列より手前の位置」で「前方に十分な空間を作る」というポジショニングを取ることで、緊急車両の動線を確保する。大切なのは理論だ。
俺はサイドミラーで後方を確認した。救急車は、ウィンカーを点滅させ、右折レーンへ進入する。よし、予測通りだ。信号が青に変わると、先頭車に続き、列が動き出した。
条件反射のシロウトどもが。そのような一般車両の動きを堰き止め、コントロールすることこそが俺の使命なのだ。
救急車は右折レーンから俺の車の横をすり抜ける。あとは、俺が後続車を
これで万事うまくいく。と、思ったその時だった。突然鋭いクラクションが耳を
「おいお前、なにクラクションなんか鳴らしとんじゃ!!」
運転席の若い男が窓を数センチ開ける。
「青なのにお前がさっさと進まないからだろ? さっさと行けよジジイ」
「ハァァ!? 緊急車両が優先だってのがわかんねぇのか!」
助手席に乗っている女が「やめてよ」と、男を止めている。
「救急車ならもうとっくに行っただろ。あー、もう。急かして悪かったよ。もういいから」
「お前にはなぁ! 善意が織りなす美学ってもんがわかんねぇのかぁ!! お前のせいで全部台なしだ!!」
後部座席から子供が泣きわめく声がした。
「わかったよ、もうわかったから。ほら、子供も怖がってるだろ。頼むから行ってくれ」
男は面倒臭そうな顔をし、女はもはや自分は部外者と言わんばかりに顔を背けて窓の外を見ている。
ミニバンの後方からさらにクラクションが鳴る。渋滞ができているようだ。
俺の鋭い聴覚が再び遠くのサイレンを捉えた。どこだ。消防車か? パトカーか? ミニバンの女が窓から手を出し、何かに向かって必死に手を振っている。サイレンは徐々に鮮明になり、やがてパトカーが近くの路肩に停車した。
パトカーから出てくる二人の警察官に向かって、ミニバンの女が窓から身を乗り出し、「あの人です!」と叫ぶ。
俺は素早く車に乗り込むと、警察官の怒鳴り声を背にアクセルを力いっぱい踏み込んだ。
威嚇的なサイレンが迫る。バックミラーには、サーチライトのような赤色灯を回し、追いかけてくるパトカーが映っていた。
(了)