第12回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 万年筆を返しに 辛抱忍


第12回結果発表
課 題
贈り物
※応募数234編

辛抱忍
クリスマスの日、申請窓口に見知らぬ中年男性が現れた。
「こちらに、坂口悟さんという方はいらっしゃいますか」
「はい、坂口は私ですが」
「思ったとおりだ。面影がある。僕は、矢代太郎と言います」
男は少し相好を崩した。
「覚えているかな? 水木小学校で同じクラスだった矢代です」
矢代、矢代、そういえば、そういう同級生がいた。
矢代は、小学校の頃のクラスメイトだった。そうだ。当時私は彼にたびたびいじめられていた。
その矢代がわざわざ訪ねてきた。そういえば年は取っているが面影はあった。たわしのように短く刈った黒光りする頭髪はあの頃のままだ。
「どうやって僕がこの町にいることを知ったのかい?」
気になったので訊いてみた。
「今はSNSの時代だからね。偶然だけど、君がこの役場で働いていることがわかったんだよ」
なるほど。詐欺ではなさそうだ。
「それで、何しに来たのか、という顔をしているね」
あの頃とはまるで別人の温厚な言い方だった。三十年以上も経っているのだ。変わって当然だ。久しぶりに再会する場面を今まで何度も経験してきたけれど、いまだそのたびに驚かされる。
「実は、博司君にこれをプレゼントしに来た。というより、返しに来たというのが合っているけれど」
矢代は黒い鞄から長さ十五センチほどの茶色のケースを取り出した。その表面は合皮のようだ。矢代がケースを開けると、中に万年筆が入っていた。真鍮製で高級感があり、キャップのクリップ部分は金色に光っていた。
「ん? どういうこと?」
「もう忘れてしまっているかもしれないけれど、僕は君の筆箱から万年筆を盗んだ。当時、博司君に返して欲しいと懇願されたけれど、それは僕のだと言い張って僕は返さなかった」
そうだ、思い出した。そういうことがあった。当時、矢代は相対的に豊かだった私を妬んでそういうことをしたのだろう。のちに、子供のやったことだから仕方がないと私はその悔しさを紛らわした。
その万年筆は祖父が買ってくれたもので、私のお気に入りだった。当時の小学生にとっては高価なものだった。それを学校にもっていったことを私は後悔した。そして、矢代のことをひどい人間だと思った。確証がなかったので私は先生に訴えなかったが、今思うと、訴えていれば、矢代はあっさり窃盗を認めたかもしれない。
「当時の万年筆はもうとっくになくなっているので、新品を買ってきたよ」
矢代はずっと気になっていたらしい。
「そのためにわざわざ返しにやって来たのか」
矢代は小さく肯いた。
昼休みのチャイムが鳴った。近くのファミレスでランチを食べようか、と矢代を誘うと、彼は承諾した。
店に入り、注文を終えて落ち着くと、矢代が言った。
「今は坂口君は役場勤めなんだね。僕と違って頭がよかったからね」
「そんなことはないよ。ところで、矢代君は、どうしてるの?」
「あの片田舎で、畑を耕しているよ」
「農業は大事だからね。僕よりよほど国に貢献している」
私は本気でそう言った。
「貢献だなんて、自分が食べるために働いているだけだよ。学がなくても、体が丈夫でよかったよ」
私はふと思い出して訊ねた。
「二人で山奥にアケビ取りに行ったのを覚えている? 矢代君が誘ったんだよね?」
「そういえば、そんなこともあったね」
「あの時、食べたアケビは甘くて美味しかったねえ」
「山奥まで行って、木に登って必死になって取ったから美味しかったんだね。そういうの、ボンボンにはとても思い出深いものになるんだね」
「ボンボンかあ。矢代君は僕のことを時々そう言ってたね」
私たちは同時に笑った。
私が矢代にいじめられていた話には私は触れなかった。矢代にもいじめる事情があっただろうし、万年筆も返しに来たのに、蒸し返すのは野暮というものだろう。
それから二カ月ほどして、昔いた町――つまり矢代がいる町――の隣町でたまたま会議があったので、矢代を訪ねることにした。
矢代宅に着くと、木造の平屋建ての建物は焦げ茶色に変色し、かなり古びていた。庭一面に雑草が茂り、窓ガラスが数箇所割れていた。空き家のようだった。矢代は引っ越したのだろうか。ふと気配を感じてふり返ると、通りがかりの老人だろう、私をじろじろ見ていた。
「矢代さん一家は、全員いないよ」
老人はぶっきらぼうに言った。
「引っ越しされたんですか」
「いいや。
「息子さんもですか」
老人は何度も肯いた。
「太郎君も亡くなったよ」
ということは、先日再会してからすぐに亡くなったのだろうか。なんとはなしに訊いてみた。
「それは、いつのことですか」
「去年の十月下旬のことじゃったよ」
ということは、亡くなったのは私に会いに来る二カ月ほど前だったということになる。だとすると、役場に来た矢代と名乗った人物はいったいだれだったのか。いや、別人ということはない。彼は確かに矢代だった。アケビ取りは矢代本人でなければ知らない出来事だからだ。
そんなことを考えているうちに、私の両目から涙が溢れ出てきた。
(了)