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第12回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作  いけないソフトクリーム 齋藤周瑛

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第12回結果発表
課 題

贈り物

※応募数234編
選外佳作
 いけないソフトクリーム 齋藤周瑛

 生きていくにあたって重要なものというのは世の中にごまんとある。教養を深めることや、金、名声に執着すること、一芸に秀でること、長生きをすることもそうだろう。分かりやすく立派だと見え、また他所からの評判というのも受けやすい。ただ、私はどうにもそういったものに頓着がないのか、もしくは人生で何かを成し遂げたいという向上心がないのか、重要なものはもっと別の、自分をご機嫌にするためのものなのではないかと思っている。

 あれは桜の薄桃色に、葉の鮮やかな緑色が差し込むようになった頃の、雨の日のことだった。私は書店のレジ打ちの仕事をしていたのだが、四月の下旬ということもあっただろうか、どことなく五月病の気配がして、ありとあらゆる集中力に欠け、身体中に鉛玉をぶら下げているような気怠さを抱えていた。何度かレジの打ち間違いをしてしまい、勤続三年目とは思えない手つきの悪さを客から冷ややかに見られていた。そのたびに、自分の頬に平手打ちを施して、せめて勤務時間中は自分を保っていなければならないと、胸の内で諫めていた。
 その不調と、怪しい動きを見かねていたのだろう。店長は昼の休憩の際、私を店舗裏の喫煙所に連れ出した。
 紙煙草の煙が二つたなびき、雨降る空に溶けていた。店長は、眼鏡の奥にある細い目をさらに糸のようにしていた。
「藤谷、今日はどうした。雨だからか?」
 店長は長い横髪を指に絡ませていた。私のことを気にかけているのだろうけど、真剣ではない。そのような調子であることがなんとなく分かる仕草だった。
「いや、まあ。雨のせいにできたらいいですけどね」
 ぼんやりと頭を上に傾け、吸った煙を吐く。
「いいじゃんよ。雨のせいにしたって」
 店長は煙草を灰皿に押し付ける。細かった煙が途切れ、残った茶色いフィルター部を底に落とす。
「お前はいつも真面目だから、たまには自分に甘えたって罰は当たらんよ」
「そう、ですかね」
 私も煙草を消す。
「そうだよ。ダメなときをどう流すかってのも、仕事のうちだと思いな」
 店長は私の腰を一回叩き、店内へと戻っていった。その背中は、彼女が背高であるからかもしれないが、それ以上に広く大きなものに見えた。

 午後の勤務も相変わらずであった。特に酷かったのは、取り寄せ依頼の電話がかかってきたときのこと。あれはきっと老婆の声だっただろう。酷い滑舌に、どこの地方の訛りだろう、という不思議なアクセントまじりだったために聞き取りにずいぶんな時間を要し、何度も言い直しを要求したからか、いよいよ相手も痺れを切らして、「もういいです。こちらでは買いません」と言い切られてしまった。こればっかりは明瞭に聞き取れた。
 人を相手にして、怒らせてしまったときのあの胸のざわめきはなんと表現したら良いのだろう。とうとうカウンターで大きなため息をついてしまった。そしたら客の一人と目が合ってしまった。よく店に来る、頭が真っ白だけども背筋がまっすぐなおじいさん。私は咄嗟に目を逸らし、咳払いをして誤魔化した。
 
 それから十数分が経ち、あのおじいさんがレジ待ちの列に並んだ。少しぎょっとした。だが、気まずいからと言っても仕事を放棄するわけにもいかず、閉ざしていたレジを開け、「お次のお客様、こちらにどうぞ」と手を挙げた。おじいさんがこちらに歩み寄ってくる。彼は文芸雑誌と、いくつかの文庫本を手にしていた。多いな、と思う。できるだけレジを早く済ませたかったが、彼は文庫本にはカバーも着けるように要求してきたため、そういうわけにもいかなかった。だが、できるだけ手を早くして、会計を済ませる。
 だが、そのとき。
「あっ、お客様!」
 彼は差し出した四百円余りのお釣りを受け取らずに立ち去ってしまったのである。追いかけようとしてレジカウンターを一歩踏み出したところで、おじいさんは背中を向けたまま手を振った。それ以上は追いかけられなかった。店長に報告をするべきだと思った。ただ、私はそのお釣りを、パンツのポケットにしまってしまった。小銭から手を離した瞬間、指先が痺れるような感覚が走った。これは、罰の当たらない甘えになるだろうか。
 退勤後、すぐにコンビニエンスストアに立ち寄った。いつもなら手を出さない、三百円以上もするソフトクリーム。胸に沁みるほど冷たくて、ひたすらに甘かった。
(了)