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第13回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 マイ・コントラクト 阿南改

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小説でもどうぞ
結果発表
第13回結果発表
課 題

契約

※応募数249編
選外佳作
 マイ・コントラクト 阿南改

 整然とした美しさを取り戻した契約書を眺めると、自然とため息が出た。そうして修正し終えた契約書をうっとり眺めるのは、法務部で働く藤田のルーティーンだった。
「おい藤田ぁ! どこだぁ!」
 無粋な叫び声に邪魔をされ顔を上げると、事業部の松岡が巨漢を揺らしてやってきた。脂汗が浮かぶ松岡の怒り顔には、金縁眼鏡がめり込んでいる。
「例の契約書、なんで突き返しやがった! あれは最優先だって言っただろ馬鹿野郎!」
「あんな杜撰ずさんな契約書、通すわけないでしょう」
 松岡の出した契約書はひどいものだった。誤字だけで四十五箇所。条、項、号がごちゃ混ぜで、必須の条項も抜けていた。藤田には契約書がズタズタに引き裂かれ、泣いているように見えた。
「本日中に承認がほしいなら、すぐ修正して再提出してください。これから昼休みなので、失礼します」
 無様に叫ぶくらいなら、そのエネルギーを少しでも尊い契約書に注げばよいのに。誰も彼も、契約書の大切さを理解しないのはなぜなのか。腹の底で怒りがふつふつと煮え始めた藤田は、追いすがって叫ぶ松岡を突き飛ばし、オフィスを後にした。

 弁当を買いオフィスへ戻るエレベーターの中、ようやく怒りが収まりかけたところで、藤田は五人組の強盗と出くわした。ウェブ流通を営む藤田の会社は、倉庫に貴重な品をいくつも置いていて、強盗たちの狙いもそれだった。黒いニット帽を被ったリーダーと思しき男にナイフで脅されて、藤田は仕方なく強盗たちを倉庫へと案内した。
 五人の強盗が仕事をする間、藤田は人質として付き添いながら、彼らがずっと口論しているのを聞いていた。どうやら五人のうちリーダー以外は雇われの闇バイターのようで、報酬について揉めているらしかった。
 なかなか終わらない押し問答に怒りが再び沸きあがり、藤田はついに割って入った。
「報酬に関する契約書はないんですか?」
「契約書……? そんなもん、あるわけねえだろ」
 強盗のリーダーは藤田に気圧されたのか、ニット帽のてっぺんをつまみながら、しどろもどろに返す。
「口約束ではダメです。今からでも遅くないから、契約書を用意した方がいいですよ」
 藤田はリーダーのスマホに、契約書のひな型を送ってあげた。リーダーも乗り気になったのか、ごつい指でなぞりながらひな型を読み始める。
「この甲とか乙とかってなんだ? 焼酎?」
「略称です。AさんBさんみたいな意味ですよ」
「なるほど、なんか便利そうだな」
「そう、便利なんです! 契約書は、あとから訴訟にならないための証拠として非常に有用なんですよ」
 まさか契約書の意義を理解できる強盗と出会えるとは! この世も捨てたものではないと感動した藤田は、契約書の書き方を懇切丁寧に教えてやった。そしてリーダーへの説明が終わり、闇バイターたちが金目のものをあらかた集めきったところで、急に警察が乗り込んできて五人の強盗を逮捕した。
 藤田は、呆然とするしかなかった。契約書を理解しはじめていた愛しき強盗があっさり連行され、何か大切なものを奪われたような気持ちになった。
「大丈夫ですか? もう安心ですよ」
 藤田を案じたのか、一人の警察官が優しく言葉をかけてきた。しかし、その言葉は逆に、収まりかけた藤田の怒りを三度沸き立たせた。
「そんな口約束、到底信じられませんよ! あの強盗を連れてきて、もう金輪際関わらないと契約書を書かせてください! それともあなたたち警察が私を一生かけて警護すると一筆書いてください! じゃなきゃ何の意味もない!」
 居合わせた警察官たちは、みな目を丸くして驚いていたが、藤田は構わずに不満の数々をぶちまけた。両親の介護について相談中、契約書が要ると話しただけで、弟が縁を切ると逆上したこと。子育ての分担について契約書を書いていたら、妻が子供を連れて実家に帰ってしまったこと。怒りは土石流のごとく溢れて止まらなかった。
「どうしてですか? 私はただ、物事を後腐れなく、円滑に進めたいだけなのに!」
 契約書の意義を理解しないなんて、誰も彼も、まるで知性のない動物のようじゃないか。そう思うと、怒りは次第に空しさへと変わり、藤田は力なくうなだれるしかなかった。
 藤田はただ愛しい契約書だけを思った。刷りたての書類の香り、押印するときの感覚。契約書が、彼のすべてだった。
(了)