第13回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 事故物件 雨川未於


第13回結果発表
課 題
契約
※応募数249編
選外佳作
事故物件 雨川未於
事故物件 雨川未於
「あなたのそういう、ちゃんと言葉にしないところ、大嫌い。さよなら」
ヒリヒリと痛む左の頬。たった今、ヒモとホームレスのちょうど真ん中に立たされた俺は、共に放り出されたギターを抱え、その足で駆け込み寺へと駆け込んだ。
「おい、ここは駆け込み寺じゃねぇぞ。不動産屋だ。ヒモに貸す家なんてねぇよ」
「もうヒモじゃねぇもん。苫田ぁ~、俺たち親友だろ~、家泊めてくれよ〜」
まだ痛む頬を膨らませながらふざけたことを言う俺に、苫田は呆れながら、一枚の契約書を差し出してきた。
「築五十年のマンション。間取りは六畳一間で、家賃はタダ」
「え、家賃タダなんてありえんの?」
前のめりになり契約書を読んでみると、よくある規約に加えて『この部屋を橋本ノア名義で契約すること』という異質な一文が添えられていた。
「なにこれ?」
「俺も詳しいことは分かんねぇんだよ。管理人に聞いても特に何も教えてくれねぇの」
「……まぁ、いっか」
何事にも関心が薄く、自分の名前に強いこだわりもなく、とにかくホームレスになるなんて絶対御免だった俺は、五秒ほど熟考したのち、書き慣れない『橋本ノア』の文字で契約書にサインした。
「あなたが橋本ノアになってくれる人?」
引っ越し当日。六畳一間には、眩しい西陽が射し込んでいた。引越し作業の疲れからうたた寝していた俺は、その一言を子守歌のように聞きながら、さっそく取り憑かれた。
宅配の荷物が届いたときは「橋本」とサインする。自分なら絶対に食べることのないみかんヨーグルトを食べる。今まで一度も触れたことすらない毛糸でコースターを編む。
あの日から、ノアは俺の身体を使い、『橋本ノア』としての生活を着々とこなしていた。
俺は俺で、取り憑かれつつも、意識はあり、動くこともできたので、ひとつの身体をシェアしているような感覚で過ごしていた。
金がないので、ギターのよれた弦を再利用しようと鍋に入れて茹でていると「今日はそうめん? いいね」と屈託なく笑い、煙草を吸えば、コホンコホンと咳払いのふりをして楽しそうに笑う。幽霊なのによく笑うもんだと思った。 人伝に紹介してもらったライブハウスのバイトは、サボることなく懸命にこなす。幽霊なのによく働くなぁと思った。 飲みの席。大したセンスもない先輩が大して音も聴かずに「若いねぇ」と嫌味を含んだ怠慢な評価をしてきたときには「老後、若い人の手を借りられず野垂れ死ねばいいのよ」といつもより低い声で囁く。俺は飲んでいるハイボールにむせながら、やっぱり幽霊だなと思った。よく笑い、よく働き、面白くないことがあれば憎悪をむき出しにして憤怒する。俺の人生、ノアに生きてもらったほうが健康的かもしれないと、半分本気で思ったりした。
「橋本ノアさん、元気になったんだねぇ。よかった、よかった」
ある日のバイト帰り。家の前でひとりのおじいさんに話しかけられた。
「ここの管理人の林です。わたしはもう老いぼれだから、身体を貸してあげても満足に過ごさせてあげられないと思ってね。誰か来てくれたらと、契約書にあんなことを書かせてもらったんです。彼女は生前……」
「上司からのいじめに耐えられず自殺。バカだよね。……生きるって、楽しいことだったんだなぁ。楽しかったなぁ」
ノアは寂しそうに笑って、六畳一間の部屋をぐるりと見渡した。
「うん。今なら。ちゃんとこの部屋とお別れできそう」
ノアの決心を聞いた俺はギターを取り、胡坐をかく。普段は気にならない時計の秒針の音がカチカチとよく聞こえる。メトロノームみたいだなと思いながら、それを合図にギターを鳴らす。御立派なお経なんて読めないから。ノアが好きそうな音を丁寧に鳴らす。
最後の一音が響き渡り、心の中に、温かい涙を流す感覚がじんわりと広がって、それはすぐに離れていき、やがて半分空っぽになったような感覚だけが残った。ふと視線を目の前にずらすと、そこには優しく微笑むノアがいた。
「あなたのそういう、ちゃんと言葉にしないところ、大好き。さよなら」
「……ったく、覗いてんじゃねぇよ」
ひとり呟く。六畳一間には、優しい西陽が射し込んでいた。
(了)