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第13回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 猫と悪魔 松本佳奈子

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小説でもどうぞ
結果発表
第13回結果発表
課 題

契約

※応募数249編
選外佳作
 猫と悪魔 松本佳奈子

「そんなあなたにばかり都合のいい契約、結べるわけがないでしょう」
 まさか悪魔を呼び出せるとは思わなかったし、契約をあっさり断られたのも驚いた。ルーズリーフに描いた魔法陣の上に現れたスーツ姿の人物は、呆れた顔で僕を観察している。あまりに自然に出現したので、座布団で眠っていた猫も悪魔を一瞥しただけでまた眠りに戻った。
「『魂と引き換えに売れっ子作家になりたい』は、都合よすぎですか」
 僕はおずおずと聞いてみる。本当なら現代のシェイクスピアになりたいと言いたいところだ。
「本気で自分の魂にそんな価値があると思ってるんですか? あなたの魂だったら、Xのフォロワーを百人増やすくらいですよ」
 シェイクスピアは見透かされたようだった。床の上のゴミを避けながらキッチンに行き、流しに置きっ放しにしていたマグカップを洗う。悪魔とはいえ人が来ると、自分の荒れた部屋が目立って見えた。たしかに、僕の魂にそんな価値はない。
「コーヒー飲みます? インスタントですけど」
「いただきます」
 コーヒーを啜る悪魔を眺めながら、どうしたものかと考える。
「悪魔って、自分を拝めばこの世界をすべて支配させよう、みたいなスケールかと思ってました」
「そりゃあ相手がイエスだったからですよ。あなただと向こう三軒両隣くらいが関の山です」
「ご近所さんを支配してどうするんですか」
 自分の魂がいかに安いか繰り返されると、地味に傷つく。使えないやつ、と吐き捨てた上司の顔がよぎった。明らかにブラックな職場で長時間働きながら、書くことだけはやめなかった。でもそろそろ心身が限界だった。魂を売ってでもこの生活から抜け出したかったが、それも夢と消えた。
「生活を変えたいのなら、この荒れ果てた家を元通りにする、くらいならできますが」
「どうして部屋掃除の対価が魂なんですか。家事代行サービスに頼みますよ」
 悪魔は、気の毒そうな顔とも見えなくはない表情で僕を見た。
「いいですか、今人間の魂は本当に安いんです。なんならこちらの猫さんの魂の方が高く買えます」
 どうして知っているのか、もちまるの好きな耳の後ろを掻いてやりながら悪魔が囁く。
「ふむ、芥川賞は軽いですね」
「もちまるは売れません!」と言いながら、ちらりと授賞式の自分の姿が脳裏をよぎった。専業作家になって、好きなだけ書けて、もちまるだっていいものが食べられる……。悪魔の顔を冷たい軽蔑の色がよぎった。
「やっぱり人間はそんなものだ。もちまるさんも嫌だと言っています。こんな飼い主は家で自分のクッションになっているのがお似合いだと」
 一瞬でも愛猫を売ることを考えた自分に自己嫌悪でいっぱいになる。どう言われても仕方がない。いつも書き物をするときに膝に乗ってくれる、その温かさだけで十分だったのに。どんどん沼にはまっていく僕を尻目に、悪魔は歌うように言葉を続ける。
「なになに、『こいつの努力は俺が知ってる。そんな賞は自力で獲る』だそうですよ。あなたがパソコンの前から動かないように重石になっていたのだとか。こんな美しい魂の方と契約できず残念ですね。下僕になりましたのに」
 悪魔の言葉がだんだんと頭に染み入ってくる。世界中から見捨てられた気になっていたのは自分だけで、こんな近くに味方がいた。僕は思わずもちまるを抱き抱え、抱っこが嫌いな彼に思い切り嫌な顔をされた。悪魔は猫の言葉が分かるのだ。呼び出して本当によかった。
「また呼んだら来てくれますか」
「人間が悪魔を呼び出せるのは一生に一度だけです。ごきげんよう」
 悪魔は来た時のようにあまりにも自然に姿を消し、部屋には少しだけ幸せになった僕ともちまるが残された。
 僕はちゃぶ台の上のマグカップとルーズリーフを片付け、ノートパソコンを開く。座椅子に座るとすぐにもちまるが膝に乗ってくる。悪魔の市場で魂が安くたって、仕事が人よりできなくたって、書き続けよう。もちまるが生きているうちに、きっと。
(了)