第14回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 星月夜からの卒業生 秋川おふろ


第14回結果発表
課 題
卒業
※応募数281編

秋川おふろ
私の頭の中は常に星景写真のように渦巻いている。とりわけピアノを弾いているとき、私の眼前の鍵盤は星影に晒されたように色彩豊かに見える。ドは
「舞花ちゃんももうすぐ卒業ですね」
隣にいる山下先生が呟くと、お母さんは今にも崩れてしまいそうな顔をしている。
「え、どうして?」
まだこの学校に来て一年しか経っていないじゃない。私は週に一度の山下先生のピアノの授業がこんなにも好きなのに。
「大丈夫だよ。先生とはお別れだけど、高校に入ってまた楽しい生活ができるから」
私は到底納得なんてできっこないと顔を歪める。
まただ。また卒業は私から大切なものを奪う。
「舞花ちゃんとは別々の学校になっちゃうね」
中学校の卒業式の日、小学校からずっと一緒だった瑠璃ちゃんが遠慮がちに口を曲げて言った。瑠璃ちゃんとは塾でも隣の席で、春からは同じ高校に通う約束もしていたのに。私たちは授与されたばかりの卒業証書を脇に挟みながら、二人で抱き合って別れを惜しんだ。打ちひしがれる私をいつもの渦が襲った。くらくらして倒れ込む私に寄り添い、制服の袖をずぶ濡れにして泣いてくれたのも瑠璃ちゃんだった。
あれからたった一年。私は卒業なんて望んでない。周りの大人たちは卒業卒業と先を歩いて、いつだって自分のペースで決められない。新しい一歩なんて踏み出さずに楽しい生活をそのまま続けることはいけないことなの?
お母さんに連れられて教室に戻る。この学校の教室は中学校とは違って窓はあるけれど開かない。花瓶も額縁も黒板消しクリーナーもない。それでも入りたての頃の教室はもっと華やいで見えた。私は薄々ながら感づいている。自分のピアノの才能の劣化に。何かの本で読んだけれど、こういうのを共感覚と言うらしい。でも段々と音階は色を失ってきていて、教室もただの無味乾燥な空間に戻ってきている。目をうんと閉じないと星月夜も見えなくなってきている。だから、また卒業させられてしまうんだ。
「舞花ちゃん、卒業おめでとう」
二つしかない机の窓側の席の環奈ちゃんが震える声をかけてくれた。また私は、かけがえのない友達とお別れしなくちゃいけない。
中学最後の年に、学校が終わると遅くまで塾に通う退屈な毎日から私を連れ出してくれたのが環奈ちゃんだった。
「良いところがあるんだ。行かない?」
環奈ちゃんはぼさぼさの長髪に遠い目をしていて、何より腕を捲ると蛇が寝床に獲物を引きずり込んだような痣があって格好良かった。塾をこっそり抜け出して、夜の繁華街をうろうろして遊んだ。そこには私たちより背丈のある知らない制服を着た子たちがいて、汗だらけになりながらはしゃぎあった。私、本当に嬉しかったんだ。こんな刺激的な夜は初めてだったから。その日から私は瞼の裏に綺羅星が浮かぶようになって、五線譜は七色に見えるようになった。
でも目の前にいる今の環奈ちゃんは艷やかな髪をして、痣も薄くなってきているみたい。
「私はもう少し時間がかかりそうだけど、舞花ちゃんの後を追いかけて卒業するからね」
環奈ちゃんは私の目を見て微笑んだ。
お母さんはさっきからずっと私の手を固く握っている。この学校には卒業式はないから、保護者と一緒に門を出るのが代わりの儀式らしい。保護者がいない子もいると聞くがそういう子はどうするのだろう。校舎を後にするといよいよお母さんは相好を崩して頬肉を吊り上げ、涙を堰き止めているように見えた。私の口から耐えきれずにわだかまりが飛び出した。
「お母さん、何がそんなに嬉しいの? 卒業は友達を、感覚を、また一つ失うことなんだよ?」
私が思いをぶつけても、お母さんは溶けるような笑顔を一つも崩さなかった。私の目を包み込む視線を向けながら首を振った。
「卒業は友達を、感覚を、また一つ取り戻すことなんじゃないかしら」
お母さんの手が私の左腕にあるまだ少し痛々しい注射痕を優しく撫でる。
「舞花。卒業は通過点なのよ。それから……」
お母さんは月並みな言葉を今まさに身体から染み出してきたように絞り出した。
「これから瑠璃ちゃんと同じ高校に行けるのよ」
え、瑠璃ちゃんと? 私の通うはずだったあの高校? あれ、瑠璃ちゃんが見える。それは幻覚ではなくたしかに。
前方を見やると青少年薬物依存回復支援施設の門の外で瑠璃ちゃんが手を振って待っていた。
(了)