公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

第14回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 南天の木 中田健一

タグ
小説でもどうぞ
結果発表
第14回結果発表
課 題

卒業

※応募数281編
選外佳作
 南天の木 中田健一

 終戦の前の年に私はこの世に入学いたしました。今年で八十一歳になります。これは私の卒業論文のようなものでございます。論文と言いましても、中学しか出ていない私には論文の書き方など分かりません。この世の感想文、それが正直なところでございましょう。
 昨年、胃に癌が見つかり、お医者様からは、今年中にはこの世を卒業することになるだろうと言われております。目は霞み、耳は遠く、声は弱く、体の節々が痛み、お医者様の言葉がどうであれ、卒業が近いということは私の体が静かに認めております。卒業までにいくらかの猶予を頂きましたので、この論文を書き上げる時間ができたことをありがたく思っております。
 この世の思い出となりますと、在学中に起きた大きな出来事となるのが通常でございましょう。結婚をした、子が産まれた、大病をした、一般的にはそういったところかと思います。大病をしたことは今回の胃癌以外はございません。結婚をして息子が三人おります。ですから結婚式や息子の誕生が私の思い出の中心になるはずでございます。しかし目を閉じて過去を振り返った時、私の記憶に漂うもの、それは、ただ一本の南天の木なのでございます。その南天の木は、物心がついた時にはすでに我が家の庭に植わっておりました。卒業間際の現在も、八十年ほどの年月を経たにもかかわらず、ほとんど大きさを変えず、依然として細い幹を風に揺らしております。南天の木は庭の真中に、他の木々や花々との調和を乱すように伸びております。鳥の糞にでも混じってどこからか運ばれてきた南天の赤い実がそこに芽を出したのでしょう。
 南天が大木になることは滅多にないそうでございます。山深く南天の大木を見つけたならば大金で取り引きされ、豪家の床柱になると聞きます。「難を転じる」という意味から縁起の良い木だとされ、江戸の頃より庭や玄関先に植えられてきたということでございます。そんな南天の木がなぜ私の記憶に漂うのか、私にもよく分かりません。幼い頃は南天の赤い実をちぎっては友達に向かって投げたり投げられたりしましたが、それは思い出そうとして思い出される記憶であって、目を閉じてすっと上がってくる記憶ではございません。花は小さくたいして美しくはなく、私の気を引きません。床柱にはまったく関心がございません。無理に縁起を担ぎたいとは思いません。
 それでもたった一つだけ、我が庭の南天の木に好きなところがございます。幹です。まっすぐと伸びた幹はあるところでわずかに角度を変え、またまっすぐと伸びてゆき、また角度を変えます。巧みな絵師が毛筆で描いた個性的な線のように思われます。私はそこにだけ美を感じ、価値を感じるのです。しかしたったそれだけでございます。
 妻も息子も、両親も祖父母も私同様、南天の木にそれほど興味がなかったはずでございます。誰もが見捨て、聞き捨て、思い捨てる南天の木、それでもなぜか私の記憶の真中であの細い幹が揺れているのでございます。しかしそんな私の記憶も卒業と同時にこの世から消え去ってしまうのでしょう。南天の木さえもいつか誰にも知られずこの世を去ってゆくのでしょう。寂しさを感じますが、感傷に耽るほどのことではございません。
 卒業後の進路でございますが、これは私自身で決められるものではございません。天国か、地獄か、生まれ変わってまたこの世に入学するのか、それは神様が決められることでございます。ですがたった一つだけ、私には希望がございます。もし願いが叶うなら、私はあの南天の木になってみたいのであります。理由はさっぱりと分かりません。ただただ私は南天の木になってみたいのでございます。本来なら、妻や息子、孫たちの健康や幸福を神様に願って卒業すべきですが、南天の木になりたいと、私はただそれだけを願ってしまうのでございます。
 未来はふらふらとしております。現在もゆらゆらとしております。過去だけは揺らがないと信じる方も多いかと思いますが、過去というものも、日々色を変えてゆくのでございます。季節が流れるが如く、人の心も流れてゆくのでございます。純粋な過去などこの世には存在しないのであります。そんな曖昧な世に人はただ生まれ、ただ生きてゆくのでございます。富める人も貧しき人も、偶然そこに根を生やしただけで、貧富の理由はどこにもないのでございます。
 八十年の間学びに学び、ようやくこの世を卒業する資格を与えていただきました。私はこの世を無事に卒業して純粋な過去へ、一本の南天の木になってみたいのでございます。南天の木は今日も揺れております。ただただ私は南天の木になりたいのであります。汗まみれ、泥まみれの人生でございました。私は一本の南天の木になるのでございます。――だから南天よ、君はもう、いつ枯れてもいいのだよ。
(了)