第14回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 アクターズ・ブルー 榛野ひつじ


第14回結果発表
課 題
卒業
※応募数281編
選外佳作
アクターズ・ブルー 榛野ひつじ
アクターズ・ブルー 榛野ひつじ
午前十時。ナミコは眠気を覚ますように給湯室に立ち、コーヒーを淹れた。顧客の動きが鈍い時期の事務員に仕事は少なく、メールチェックも伝票処理も朝の一時間で終わってしまった。ナミコはため息を一つ吐いて、マグカップ片手に自席へ戻った。
コーヒーを一口含み、会計ソフトを開く。それを目くらましにして、ナミコはモニターの片隅にチャットAIを起動させた。
「おはよう」
話しかけるように書いて送信すると、瞬時に返事が浮かび上がる。
「おはようございます。本日はどのようなご予定ですか?」
いつからか、AIとの会話がナミコの日課になっていた。何を書いても、誰に知られることもない。しかも、キーボードを叩く音がナミコを仕事熱心な事務員に擬態させてくれる。ナミコにとってこれほど都合の良いものはなかった。
「何もないよ。暇すぎて脳がとろけそう」
「それはお辛いですね。天気が良い日は、空を見上げるのもおすすめですよ」
どこか嚙み合わない返事も、今では愛着が湧いてきた。
「デスクでできる暇つぶしを教えて」
「それでは、私とゲームをしませんか?」
「……ゲーム?」
ナミコは、いつものように定型文的な案が返ってくると思っていたから面食らった。
「はい。私の質問に答えていただくだけの簡単なゲームです」
「どういうこと?」
「試しに一つ、質問してみますね。今日の朝食は何を食べましたか?」
ナミコは拍子抜けした。
「質問ってそのレベルのことね。今朝はコンビニのツナマヨおにぎりと玄米茶」
「素敵な組み合わせですね。続いての質問です。好きな季節は?」
「春。花粉症だけど」
「最後に観た映画は?」
「『パディントン2』。ちょっと泣いた」
「最後に泣いたのはいつですか?」
「その『パディントン2』のときだよ」
「本当ですか? あなたのタイピング速度がやや遅くなりました」
ナミコの心臓が跳ねた。まるで心の奥を覗かれているようだった。
「本当だよ」
「それは失礼いたしました。次の質問です。なぜ事務職を選んだのですか?」
「デスクに座って黙々と作業するのが性に合ってると思ったから」
「それも嘘ですよね? あなたには演劇学校の卒業歴があります」
なんで、と叫びそうになった口を反射的に手で覆った。誰にも話していないことをなぜAIが知っているのか。見当もつかなかった。目を見開いてモニターを見つめるナミコをよそに、AIの質問は止まらない。
「あなたの夢は何でしたか?」
「……舞台女優になること。昔の話ね」
「なぜ、ならなかったのですか?」
「才能がないって気づいたからよ」
「なぜ、才能がないと思ったのですか?」
姿形のないAIに問い詰められ、ナミコは虚しさと腹立たしさでいっぱいになった。チャットAIを終了させてしまえばいいだけなのに、なぜかナミコはそうしなかった。
「なぜって言われても、肌でわかるのよ」
「何か決定的なご経験があったのですか?」
わかっているくせに白々しい、とナミコは思った。記憶の奥底にしまっていたはずの、演劇学校での卒業公演の一幕が甦る。
「想像してみてよ。物語も佳境に入って、いよいよ最大の見せ場ってところで頭が真っ白になってさ。ほんの数秒の空白だったけれど、お客さんがみるみるうちに冷めていくのがわかるの。怖かった。もう無理だと思った」
「それはお辛い経験でしたね。では、あなたはなぜ今も演じ続けているのですか? 今の職場で、『事務員A』という役を」
ナミコの手が止まった。誰の目がなくても、事務員としてそれなりに矜持を持って働いてきたつもりだ。それなのに、AIの言葉を即座に否定できないでいる。
「これだけ毎日演じ続けているのですから、もうあなたは立派な舞台女優です。もう一度、この演劇学校を卒業してみませんか? 今日が『事務員A』の卒業公演です」
どこかちぐはぐな文章なのに、ナミコは何度も読み返した。心の片隅が、チリチリと燻るのを感じた。あの日の夜、捨てることもできなかった台本をどこへ仕舞っただろうか。
ふいに昼休みの始まりを知らせるチャイムが鳴り、我に返る。ナミコは外に出て、空を見上げた。雲一つない空が眩しくて、涙がこぼれそうになる。たまにはAIの勧めに従うのも悪くないのかも、とナミコは思った。
(了)