第14回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 特別な日は琥珀色の幸せを 押木基信


第14回結果発表
課 題
卒業
※応募数281編
選外佳作
特別な日は琥珀色の幸せを 押木基信
特別な日は琥珀色の幸せを 押木基信
「特別な日はちょっと贅沢に」
いつもは発泡酒なのに、何かあると妻は、私の好きなおかずと一緒にエビスを出してくれた。娘は缶を両手で包み、宝物のようにじっと見つめて、「きらきらしてる」と笑顔を向けてくれていた。自分自身が壊してしまった幸せだった日々だ。
「これは卒業じゃないからな」
会長から手渡された賞状には、「十年間、一滴も飲まず、この会に参加したあなたに敬意を表します」と達筆な文字が躍っていた。妻が当時五歳だった娘を連れて実家に帰った日、初めて、酒に溺れ暴力を振るっていた自分を省みることになった。罪悪感と喪失感に震えていた私を受け入れてくれたのが断酒会だった。一人では変えられない、みんなで頑張ろうと励まし合いながらここまできた。
暗くなった道を歩きながら、「今日で退会したよ」とメールを送る。妻とは離婚後も頻繁に連絡を取り合っていた。娘とはずっと会えていない。最後のほうは私を見ると身をすくませて怯えていた。会いたくないと言われても仕方がない。妻からは時々、娘の成長した写真が送られてくる。先日は中学校の卒業式だった。校門で花束を抱えて笑顔を浮かべている娘の写真。側には妻が並んで写っていた。今の私は必要とされていない。
贖罪が終わることはない。これからも傷つけた二人のことを考えながら生きていくのだろう。それでも今日だけは、十年間頑張ったのだという達成感に満たされていた。
六畳一間のアパートに戻る途中でスーパーに立ち寄った。いつもは節約のために自炊をしていたが今日はいいだろう。焼き鳥、唐揚げ、餃子、ポテトサラダ。重みを増した買い物かごを見て、買い過ぎかなと口元が緩む。レジに向かう途中、とあるコーナーが目に入り、自然と体が引き寄せられていった。
アパートに戻り、ビニール袋の中身をキッチンに並べていく。惣菜の横で金色に輝く缶を見て、深いため息を吐いた。これはいけない。手に取り、どうすべきか葛藤してひとまず目につかないように冷蔵庫に入れた。
購入してしまった意思の弱さに驚かされる。一人になった途端にこれだ。今までは断酒会メンバーとの約束が支えてくれていた。これからは誘惑を阻んでくれるものがない。気持ち一つでどちらにだって転ぶ。断酒に終わりはない。別れ際の会長の言葉を噛みしめる。
電子レンジで惣菜を温め始めた。食欲をそそる匂いが広がっていく。熱くなったトレイごとテーブルへと運び、テレビをつけると野球中継が流れていた。よく妻の晩酌で野球中継を観ていたことが頭によぎった。仕事で疲れた体を癒やしてくれる至福の時間だった。
熱々の焼き鳥を頬張りながら野球を観つつも、時折、視線が冷蔵庫へと向かった。手元の焼き鳥を見て、食べたあとにエビスを流し込んだらさぞかしうまいだろう、と想像してしまったのがいけなかった。
そうだ、今日は特別な日だから。
それが言い訳だと理解しつつも、体が自然と動いていた。冷蔵庫の取っ手に手をかけたところで、果たしてこれでいいのかと自問する。十年だ。同僚に誘われても、今までの自分には戻らないとウーロン茶で我慢してきた。退会したからといって、自由を選んだわけではない。だけど、今日まで頑張ってこられたのだ。自分はすでに変わっている。たった一度、飲んだからといって元の自分に戻るわけではないのではないか。
今日だけなら。
明日からはまた断酒を再開する。
ふと、背後を振り返る。誰もいないはずなのに、誰かに見られているような気がした。
誰にも見られていないさ。
思い切って扉を開けて缶をつかみ取ると、ほどよく冷えていた。プルタブに指をかけて力を入れる。カシュッというこぎみよい音が部屋に響いた。右手に缶を持ち、ゆっくりと傾ける。左手のグラスに美しい琥珀色の液体が流れ込み、柔らかそうな泡を生み出していく。
そのときスマホが震えた。缶を置いて確認すると妻からだった。
「十年間ご苦労様でした。もしよかったら、今度、三人で会ってみる?」
初めて会うことが許されたのだ。十年越しに娘に会える。俺のことは覚えているのだろうか。もし会うことができたら、なんて声をかけようか。恨まれている自覚はある。それでも不安よりも少し大きな期待に胸が熱くなる。
そこで左手に持ったグラスの存在を思い出した。握ったままテーブルの上に降ろす。妻に返信をしなければ。だが視線はグラスから離れようとしない。
これは贖罪か、逃避か。
グラスのふちを滴が垂れる。
飲み込むように、唾を流し込んだ。
(了)