第14回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 遅すぎない卒業 若葉廉


第14回結果発表
課 題
卒業
※応募数281編
選外佳作
遅すぎない卒業 若葉廉
遅すぎない卒業 若葉廉
いつものように生協食道で昼ごはんを食べていた時だった。覚えたつもりの法律の条文や裁判の判例を忘れてしまうという俺の悩みを聞いた哲宏は、諭すように言った。
「それはまた自分勝手な悩みだな」
「自分勝手って、どういう意味だよ?」
哲宏は少し黙っていたが、控えめに自慢する時の表情になった。
「必要なことは覚えたままにして、嫌なことは忘れたいというのは虫のいい話だっていうことだよ。だいたい、忘れることは大切な能力なんだぜ。怪我の痛み、叱られた悲しさ、失恋の辛さなどをずっと覚えていたら、死ぬほど苦しいと思わないか」
思いもよらない柔軟な考え方だった。こういう頭の良さこそが、法律家に求められる素養だと思ったことは鮮明に覚えている。だから哲宏が四年生進学を前にして大学を中退したと聞いた時、驚きはしなかったが、残念で仕方がなかった。哲宏もよほど悔しかったに違いない。誰からの連絡にも応答せず、やがて電話もメールも不通になった。
それから十年。彼と俺は取調室の中で、被疑者と刑事として向き合っていた。
知能犯罪を担当する捜査二課が俺に哲弘の取り調べへの協力を要請してきたのは、今から数時間前のことだった。金融詐欺に関与した容疑で逮捕した哲宏が自供せず、十日間の勾留期限が迫っているので、急ぎ取調室に来てほしいとのことだった。
「久しぶりだな。お前が警察にいるとは驚いたよ」
取調室に入った俺を見て、哲宏は驚いたように言った。学生時代と同じ人懐っこい笑顔だったが、すぐに険しい表情になった。俺は山ほどある尋ねたいことをひとまず脇に置き、期待されている役割に徹することにした。
「多くの人から金を騙し取るなんて、頭の良さの使い方を間違えたな。大学を離れることにはなったけど、お前は世の中の役に立つ仕事に就くと信じていたのに残念で仕方がない。今からでも遅くないから自分の罪を認め、やったことを全部話すんだ」
そこまで伏し目で聞いていた哲宏は、敵意のこもった上目遣いで俺を見た。
「友だちのよしみで、お前になら俺がしゃべるとでも思ったのか。甘いぞ」
俺は早くも手詰まりになったが、俺より頭が良くて弁が立つ哲宏を相手にすれば、こうなることはわかっていた。実際、俺が法律家の道を断念したのは、法曹界は彼のような奴が進むべき世界だと思ったからだ。国家上級公務員として警察庁に入ったのは、方法と職務を変えても社会正義の維持に貢献できるという俺なりの妥協と納得だった。だが自らの人生を変えた男が犯罪容疑者に成り下がったと知った今、俺は怒りを爆発させた。
「お前は俺の親友だったが、法律家を目指す上ではかなわない奴だと思っていたし、法律家になるべき男だと思っていた。だからこそ、無理してまで何度も……」
それ以上は言葉が続かず、俺は机に泣き崩れた。すぐ横で舌打ちする音がし、俺は引きずり出されるように隣の部屋に連れていかれた。すでに部屋には、学友というだけのキャリア官僚が現場で役に立つわけがないという不満が満ちていた。俺は身を縮こまらせるように折りたたみ椅子に座り、お役御免の声がかかるのを待っていた。しかし、次の指示は取調室に戻れだった。俺になら話してもいいと哲宏が言ったとのことだった。
俺が取調室のドアを開けると、学生時代の柔和な表情の哲宏が座っていた。
「全部話すよ。俺に自白させると出世が早くなるんだろう?」
俺は唖然とし、周りで息を呑む音がした。
「お前も知っての通り、ギャンブル狂いの親が学費まで使い込んだせいで俺は大学を中退した。今でも忘れられない忌まわしい記憶だ。そのくせ、今日お前に会うまで、誰かが半期分の授業料を二度も代わりに払ってくれたのを忘れていたんだ」
俺は、生協での昼ごはんの時の話を思い出し、記憶とはままならないものだと思った。
「お前が払ってくれたのはわかったけど、何も言わないから、俺も御礼を言うのも金を返すのも卒業後にすることにした。でも、結局はサラ金の取り立てに追われ、大学を中退したあとも、彼らの言いなりになって悪事を続けてきた。だから、今、お前に自供することで一度清算する。随分遅くなったが、これで俺もやっと卒業できそうだ」
俺は大きく頷き、手を差し出した。哲宏はその手をがっちりと握り返した。
(了)