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第49回「小説でもどうぞ」佳作  忘却プログラム 榛野ひつじ

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小説
小説でもどうぞ
第49回結果発表
課 題

練習

※応募数326編
忘却プログラム 
榛野ひつじ

 きっかけは、商店街に貼られていた一枚のポスターだった。
「忘れたい記憶はありますか? 当施設では、安心・安全・穏やかな方法で、あなたの記憶を風化させるお手伝いをいたします」
 胡散うさんくさいとは思いつつも、わらにもすがる思いで俺は施設へ向かった。施設はビジネスホテルのような風体だった。
「ようこそ、当施設へ。何か忘れたいご記憶がおありですか?」
 一目で上質とわかるスーツに身を包んだ、カウンセラーだと名乗る男が微笑んだ。
「別れた恋人のことを忘れたいんです。別れてもう数ヶ月経つのですが、いまだに彼女との日々が頭から離れなくて。夢にまで見る始末です」
 カウンセラーはゆっくりと頷いた。
「それはおつらいですね。ぜひ、私が開発した『忘却プログラム』をお試しください。ただし、薬物療法や催眠術といった類いのものではありませんので、一瞬でその方を忘れられるわけではありません。このプログラムは、言わば『忘れる訓練』なのです」
 魔法のように記憶が消去されることを期待していた俺は、落胆を隠せなかった。
「そんな顔をしないでください。なに、一週間もあれば十分です。訓練中はこの施設で過ごしていただきます。最上階には他の参加者と交流できるラウンジもありますが、我々の許可が出るまで入ってはいけません」
 なぜ、とは思ったが、他の参加者との交流とやらに興味はないので気にならなかった。
 翌日から始まった施設での訓練は、想像以上に不可思議で地道な作業だった。VRゴーグルを装着し、脳波、心拍、皮膚電位を測定しながら、仮想空間に広がる彼女との記憶一つ一つに靄をかけ、彼女の音声や匂いを物理的に上書きする。少し時間を置いてまた同じ記憶にアクセスし、まだ身体が反応するならもう一度、靄をかける。あのポスターから、誰がこんな体験を想像するだろう。
 訓練を始めて三日目。夕食の時間に、ふと気がついた。彼女と出かけた場所が思い出せなくなっていた。
 訓練四日目。彼女の声が思い出せなくなっていた。
 訓練五日目。「彼女」がいたことは確かなのに、「彼女」の姿かたちが思い出せなくなっていた。髪の長ささえも思い出せない。もう俺の中に「彼女」は残っていないとわかった。なんだか体が重くてしかたなく、俺はソファに沈み込んだ。そこへカウンセラーがやってきた。
「訓練は順調のようですね」
「ええ、順調、なんだと思います。ただ、なんというか…」
「思ったよりも気持ちが晴れない?」
 カウンセラーが見透かしたように微笑んだ。
「皆さん同じですから、大丈夫ですよ。一時的な反動のようなものです。残り二日間の訓練で、忘れた記憶の定着を図っていきましょう。それを終える頃には、すっかり前向きな気持ちになっているはずです」
 カウンセラーはお決まりの台詞のように淀みなく話し、ああ、そうだ、と付け加えた。
「もうラウンジを利用してもいいですよ」
 言われてみれば、この五日間はずっと部屋にこもりきりだった。途端に人恋しくなり、俺は早速ラウンジへ赴いた。エレベータで最上階に上がると、重厚なドアの向こうに小洒落たカフェスペースが広がっていた。俺はカウンターでコーヒーをもらい、窓際の席に腰掛けた。横目で様子を伺うと、老若男女がざっと十数人はいるように見えた。皆、すでに忘れたい何かを忘れた人たちなのだろう。
 ぼんやりとコーヒーをすすっていると、背後でゴン、と音が響いた。振り返ると髪の長い女性が目を丸くしてこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?」
 思わず声をかけた。女性が立ち尽くしたまま動かないので訝しく思ったが、足元に落ちている男物の腕時計を拾って手渡した。
「あなたのですか? どうぞ」
 女性は受け取りながら、ぼそぼそと何かを言った。おそらく礼を言われたんだろう。どういたしまして、と立ち去ろうとすると、カウンセラーが小走りでラウンジに入ってきた。
「あ、やっぱりここにいた! ダメですよ。あなたがラウンジに入るのは早すぎる」
 女性はカウンセラーに肩を押されるようにして出ていった。ドアが閉まる瞬間、振り返った女性と目が合った気がした。
 残りの二日間は矢のように過ぎ去った。仮想空間が見せる走馬灯のような記憶のラッシュを浴びたが、もうどの記憶にも俺の身体は動じなかった。何かの試験をくぐり抜けたような達成感があった。
「いかがですか、ご気分は」
 カウンセラーと話すのもこれが最後だろう。
「最高ですよ。何を忘れたかったのかも、もう思い出せないくらい」
「それは何よりです」
「それで、最後に聞いてもいいですか? その…一昨日ラウンジにいた女性のことで。少し様子がおかしかったようですが」
「ああ、ええ。問題ありませんよ。たまにいるんですよ、まだ許可を出していないのにラウンジに行ってしまう方が。少々記憶の揺り戻しがあったようなので、訓練期間を延ばしています」
「……そうですか」
 もしかしたら、本当は忘れたくないのだと気づいてしまったのかもしれない。どんな記憶かは知る由もないが、どうか彼女が、俺のように晴れやかな気持ちで訓練を終えられますように。柄にもなくそんなことを願いながら、俺は施設を後にした。
(了)