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第49回「小説でもどうぞ」選外佳作 できるようになったのに 渋川九里

タグ
小説
小説でもどうぞ
第49回結果発表
課 題

練習

※応募数326編
選外佳作 

できるようになったのに 
渋川九里

 定年退職して早三か月。正彦は自宅で落ち着かない日々を送っていた。
 やることが、ない。
 妻のゆかりは朝起きるとてきぱきと家事を済ませて、パートに出かける。夕方、買い物袋を抱えて戻ってきてそのまま台所に立ち、夕食の支度をする。正彦が家事を手伝おうとすると、ゆかりは頑なに拒否した。
「あなたがやると余計に手間が増えるから結構です」
 家にいるようになってから何度も家事をしようと試みた。
 まずは料理。ビーフシチューを一から作ろうと食材を買い揃えたが、調理器具の場所がわからない。調味料のありかもわからない。そのたびにゆかりに聞くうちに、もうやらなくてよいと取り上げられ、市販ルーのカレーに変えられた。洗い物をすれば食器を落として割り、掃除機に溜まったごみを出そうとすれば力任せにケースを外してごみを床にばらまく。
 こうして正彦の家事は一事が万事うまくいかず、ゆかりに全てを拒否されることになったのだ。とはいえ、今や家にいる時間が長いのは正彦の方である。このままでは肩身が狭い。なんとか自分ができる家事を見つけたい。
 そこでゆかりがパートに出ている間にこっそり練習することにした。もちろんゆかりには聞けないので、最近使い始めたA1に尋ねた。

 はじめて洗濯します。どうしたらいいですか?

 するとスマートフォンの画面にさらさらと回答が現れた。

 はじめての洗濯、ドキドキしますよね。でも順を追ってやれば大丈夫ですよ。

 AIの答えにほっとしながら、なぜゆかりはこんなふうに言えないのかと思う。回答の続きを読む。

 基本ステップ
 ①洗濯物を分ける
 ・白いもの
 ・色物や黒い服
 ・デリケート素材


 全部放り込んでボタンさえ押せば最後までやってくれる、というわけでないのだなと正彦はうなずいた。
 早速、仕訳を始めることにした。まずは色だ。白と色物を分けていると、白地に小さな花柄模様のある、ゆかりのTシャツが出てきた。
 ――これはどっちだ……?
 迷った末にひとまず脇に置いた。
 二番目のステップに洗濯表示を見る、とある。洗濯表示がどこにあるのかわからない。再びAIに尋ねた。

 いい質問です!

 AIはそう言って回答を始める。やはりほめてこそ人は伸びるものだ、と正彦は思う。ゆかりもそうしてくれたらいいのに。
 AIの指示通り一枚一枚見ていくと、黄緑色のパーカーにこんな文章を見つけた。
 “濃色は色落ちすることがありますので、他のものとの洗濯はお避け下さい”
 このパーカーで濃色なのかと思った正彦は、色とりどりの洗濯物の山を見た。いつもこうして洗濯してくれていたのかと思うと、ゆかりに感謝する気持ちが湧いてきた。そして意を決して洗濯にとりかかった。
 パートを終えて帰ってきたゆかりはベランダで風に揺れる洗濯物に驚いた。
「これ、あなたが全部やったの?」
 正彦はなんでもないようなフリをしてうなずいた。
「じゃあ、これから洗濯はあなたにお任せしていいかしら?」
 正彦は、もちろん、と大きくうなずいた。内心はうれしくてたまらなかった。
 こうして洗濯は正彦が一手に担うことになった。ゆかりは、自分がやるよりもきれいになっている気がする、と言った。正彦も、こんなに洗濯に手間をかけてくれていたのだとわかった、感謝している、と言った。定年後はじめてお互いに歩み寄れた気がした。
 ひと月後、パートから帰宅したゆかりが浮かぬ顔をして家に入ってきた。
「おかしいわねぇ……」
「どうした?」
「これ、見てくれる?」
 ゆかりがそう言って正彦に一枚の紙を差し出した。
 水道使用水量等のお知らせ、と書いてある。
「先月の水道料金、これまでの倍なのよ」
「え、何かの間違いじゃないか?」
「水漏れかしら……」
 ゆかりはそう言って立ち上がった。正彦もあとに続き、二人で台所、トイレ、風呂場と回り、最後に洗濯機置き場に向かった。
「うーん、どこも水漏れしているわけでもなさそうね」
 そう言いながらゆかりは洗濯機の上のラックに目を止めた。
「……ねぇ、なんでこんなに洗剤がたくさんあるの?」
 ラックの上には洗濯洗剤の容器が大量に並んでいる。
「一日十回以上洗濯機回したらすぐになくなるからね。たくさん買っておかないと」
「なんで十回以上も洗濯機回さなきゃいけないの?」
「だって、色や素材によって別々に洗わなきゃいけないだろう。こんなにいろんな色があったらそのくらいの回数いるじゃないか」
 正彦は自信満々にそう言って、洗濯かごの中にある洗濯物を指差した。
「まさかこれ、全部別々に洗濯しているの?」
「もちろんさ。だから大変なんだよ。一回に入れられるの、せいぜい二~三枚だろ? なのになんで洗濯機ってこんなにでかいんだろうね」
 そう言ってゆかりの方を向くと、冷ややかな目が正彦を突き刺した。
「あなたは二度と洗濯しなくて結構です!」
 それからゆかりは口をきいてくれなくなった。理由を教えてもらえず途方に暮れた正彦はAIに尋ねた。

 洗濯したら妻に怒られました。原因はなんでしょうか?
(了)