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第15回「小説でもどうぞ」佳作 紙束/味噌醤一郎

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第15回結果発表
課 題

表と裏

※応募数212編
「紙束」十味噌醤一郎
 朝起きて顔を洗って、ジュースを一杯。軽く化粧をするとスーツに着替えて家を出て、バスに揺られて電車に揺られて。
 その間、一時も仕事のことが頭から離れることはない。その日の仕事を頭の中であらかじめ反復するイメージトレーニング。それが女子大を出て入社以来の私のルーティンだった。
 そんなわけで今、私は、月曜の朝の通勤電車に揺られながら、今度伺う顧客の要望と予算との折り合いをどうつけるか、そしてそれをどう相手に説明するか、つり革の下の頭で考えていたのだった。
「竹下さん」
 突然、隣に立つ中年の男性に名前を呼ばれて驚いた。上司の佐藤部長だ。いつから?
「佐藤部長。おはようございます。びっくり」
「おはよう。僕はさっきから気づいてたよ。なんかすごい怖い顔してたね」
「すいません。価格交渉のことを考えてました」

「あ、そう。熱心でなによりだけど。土日は休めた?」
「あ。はい。いえ。あの。資格の試験勉強を」
 佐藤部長、少し噴き出す。
「休んでよ、ちゃんと」
「私まだぺーぺーなんで。気が抜けません」
「ははは。ところで竹下さんさ。これからどこ行くの?」
「え? どこって、会社」
「今日、お休みって聞いてるけど。竹下さん」
「あ」
 私はやってしまったようだった。そうだった。なんで忘れてたんだろう。
 会社で始まった有給休暇完全取得の取り組み。休んでも予定がない私は希望の日を申告せずに放っておいたら、課長が勝手に有休を一日入れてくれたらしい。先週の金曜日の帰り際、「月曜はお休みね」とさらっと言われたのを、私は今頃になって思い出したのだ。
 私は佐藤部長と別れ電車を降りた。会社のある駅まで三つ手前のターミナル駅。行き交う人とぶつかりながら、私は呆然とホームに立ち尽くしていたのだった。
   *
「休んでよ、ちゃんと」ともう一度言われて佐藤部長と別れた私は、改札を抜け、ホームから見えていたシネマコンプレックスへ向かった。さして映画が観たいわけでも、休みが必要だとも思わなかったけれど、ここまで来て何もしないで帰るのは少し悔しく感じたのだ。
 シネコンの建物に入ると私は、上映スケジュールの電光掲示を眺めた。早朝上映の作品は私の観たいものでは全然なかった。それどころか、どの時間に上映するどの作品も私の心に刺さらない。私は少なからずそのことに動揺した。私は学生時代、毎週のように映画館通いをしていた映画マニアだった。どんな作品でも喜んで観た。一流の作品には一流の、三流の作品には三流の魅力が横溢していることを、私はよく理解しているはずだったのに。
   *
 結局映画を選んで観ることはできず、敗残兵のような気持ちでシネコンを出ると、私はふらふらと裏通りを歩いていた。朝なのに気持ちは夕暮れのようだ。そして、そのまま古びたガラス戸の、朝からやっている赤ちょうちんのカウンターに私は吸い込まれたのだった。
 カウンターのみのお店で、先客は三人。みんな一人飲みみたいだ。カウンターの中ではご主人らしい白髪頭のおじさんが、焼き鳥を焼いている。注文を取りに来た女の人も同じくらいの歳だ。この二人はきっと御夫婦だろう。
「ビール。小瓶はありますか?」
「ごめんね。お姉ちゃん。うち中瓶だけ」
「じゃ。それで」
 ビールとコップを持ってきた彼女は私の前に、手帳くらいの大きさのいびつな紙束と、競馬場でもらえるプラで出来た鉛筆を置いた。
「注文はそこに書いて、大将に渡してね」
「はい。あの。おすすめは」
「なんでもおいしいけど。つくねなんかどう?」
 私は早速、鉛筆で「煮込み、つくね二本」と書いて一枚破ると中のおじさんに渡し、改めて手帳大の紙束を観察した。
 紙束は広告の裏紙だった。広告を裁断したものに穴を開け、紐を通し、冊子の形にしてある。反対を向けると、それは本来のこの紙の用途であった表。ぱらぱらめくると現れるスーパー、商店街、不動産、内装外装工事、外食産業の広告。雑多な夥しい情報は、それはあたかも、仕事ばかりの普段の私の頭の中のように思えた。
 私は再び紙束の白い面を向け、ビールをコップに注ぐと、喉を鳴らし一気に飲み干した。
「うめえ」
 そうだ。私の休日は、この白い裏紙。
 私はそこに、「お新香、ハツ二本」と書きこみ、次は冷酒にしようと考えた。
(了)